戦争の遺産とは? わかりやすく解説

戦争の遺産

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 15:01 UTC 版)

ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の記事における「戦争の遺産」の解説

ロシアポーランド戦争、および偽ドミトリーたちの出現についての歴史は、ポーランドロシア将来統治者たちや政治家たちにとって有効に使用された。この戦争都合よく歪曲した歴史物語ロシアでもポーランドでも人気博したポーランドではこの戦役ポーランド黄金時代絶頂期として記憶されナポレオンヒトラー攻めあぐねたモスクワ占領し統治した時をその頂点とみなす。 ロシア新たな王朝となったロマノフ家は、勝者の書く歴史政治強力な道具となることをよく理解しており、ロシア人偽ドミトリーたちを作り出す上で果たした役割ポーランドスウェーデン保身のために結んだ協力関係スタニスワフ・ジュウキェフスキ首班として率いポーランド議会共和国セイム)が提唱しモスクワボヤーレたちの大半賛同していたリベラルな三カ国連合=ポーランド・リトアニア・モスクワ連合抵抗したことなどは慎重に伏せられた。(この三カ国連合構自体は、1654年再発した戦争で再び浮かび上がることになる。この場合は、ロマノフ家専制的に三カ国の頂点君臨するというものだが) 後世ロシアの歴史家は、「ロシア正教文化破壊するため野蛮な侵略行ったポーランドイエズス会同盟対し、この時代ロシア人たちがロシアを守るため英雄的立ち上がったのだ」という文脈用いて称賛したアレクサンドル・プーシキン戯曲ボリス・ゴドゥノフ』、モデスト・ムソルグスキー歌劇ボリス・ゴドゥノフ』などはこの歴史観沿っている。一方ロシア帝国属国となっていた19世紀ポーランド立憲王国では、ヤン・マテイコ多く画家が、ポーランドロシア対等に戦い、しかも圧倒していた時代を描くべく、この戦争舞台にした歴史画数多く描いたロシア革命後共産主義者政府でもこの戦争プロパガンダとして使われ、特にポーランド革命干渉したポーランド・ソビエト戦争の際には大々的使用された。戦間期ポーランド政治家ユゼフ・ピウスツキもこの戦争開かれた自由主義国家ポーランド暗愚専制主義国家ロシア戦いとして、新生ポーランドにおける宣伝用いたソビエト連邦の崩壊後のロシアでは、2005年、秋の唯一の祝日だったロシア革命記念日11月7日)を廃止しロシア革命後廃止されていた「ポーランド侵略軍からのモスクワ解放記念日」(11月4日)を「国民統一の日」の名称で復活させている。これはモスクワ解放大動乱終結侵略軍の撃退に至る国民蜂起記念したものであり、ツァーリがおらず総主教権力持たない現在のロシア統合し守護するための手となっている。2007年にはロシア歴史ファンタジー大作映画『1612』が公開されロシア人愛国心訴えた。これは、中世ロシアの古い秩序に代わって、近代から現代につづくロシア国家秩序とその思想がこの戦争により誕生したことを示している。

※この「戦争の遺産」の解説は、「ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の解説の一部です。
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