戦争初期
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1941年12月8日、「木曾」、「多摩」、特設水上機母艦「君川丸」は幌筵に進出。同日第二十一戦隊(「木曾」と「多摩」)は真珠湾攻撃から帰投する機動部隊の援護をするため出航したが、機動部隊とは合同できず12月18日に厚岸に帰着。荒天で損傷したことから2隻は横須賀へ向かい修理を受けた。 1942年2月以降はアメリカ機動部隊出現時に出撃し、哨戒に従事した。第二十一戦隊は1942年1月21日に横須賀から出航し、東へ向かった後1月26日に厚岸に到着。2月1日マーシャル諸島が空襲を受けた。同日、第二十一戦隊と水雷艇「鷺」は厚岸より出撃し、哨戒線についた。第二十一戦隊は2月8日に厚岸に帰投。その後釧路へ移動し、2月12日に出航して北千島、カムチャッカ方面の哨戒を行い2月20日に厚岸に帰着した。2月20日にアメリカ機動部隊がラバウル方面に来襲すると「木曾」は翌日出港し、哨戒に従事して2月26日に厚岸に帰着した。3月4日にはアメリカ機動部隊は南鳥島に来襲し、同日第二十一戦隊は厚岸より出撃。3月6日に哨区を離れ3月8日に横須賀に帰着した。3月10日、敵機動部隊らしきものの情報があった。それを受けて第十二戦隊は3月12日に横須賀より出撃して哨区へ向かった。3月19日、横須賀に帰投。 4月18日、敵機動部隊発見の報に続き、日本本土に対する空襲があった。第二十一戦隊は厚岸より出撃し、重巡洋艦「那智」と合流して南東へ向かった。4月19日、第二十一戦隊と「那智」は爆撃を受けて損傷し漂流中であった監視艇「第二十一南進丸」を発見し、「木曾」が乗員の収容と砲撃による処分を行った。また、「木曾」は航行不能となって漂流中に潜水艦「伊七十四」に救助されていた監視艇「第一岩手丸」乗員を4月22日に収容し、4月24日に厚岸に帰着した。
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戦争初期
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「ブルーノ・ブロイアー」の記事における「戦争初期」の解説
ブロイアーは第1降下猟兵連隊の指揮官としてポーランド、フランス、ベルギーで戦ったが、顕著な勇猛さでその名声を得たのはオランダでの戦闘でのことであった。ブロイアーの部隊の目的はムールデイク(Moerdijk)とドルトレヒトの2つの橋の確保であった。ムールデイクではフリッツ・プラーガー(Fritz Prager)大尉指揮下の第1降下猟兵連隊/第II大隊が橋の両側に2個中隊が降下し強襲をかけ、橋が爆破される前にこれを確保した。ドルトレヒトでは第1降下猟兵連隊/第I大隊のフォン・ブランディス(von Brandis)中尉指揮の第3中隊が僅か1個中隊のみで降下し、激しい戦闘が行われた結果オランダ軍が橋を確保し続けブランディスは戦死した。 ワールハーベン(Waalhaven)近郊の飛行場は第1降下猟兵連隊/第III大隊が防衛部隊を飛行場から引き離す策で手際よく確保し、増援部隊がそこに着陸した。オランダ軍の反撃は増大し、ドルトレヒトの橋は未だオランダの車両を徴発したブロイアーの手中には落ちていなかったが激しい戦闘のブロイアーの発揮した信じがたいほどの勇猛果敢さにより橋は完全に確保された。ブロイアーはこの功績により騎士鉄十字章を授与された。 ブロイアーはドイツの英国侵攻計画であるアシカ作戦で先鋒を務める部隊に含まれる予定であった。マインドル少佐の大隊がハイズ(Hythe)に降下する一方でブロイアーの連隊はパドルスワース(Paddlesworth)とエッチングヒル(Etchinghill)に降下することになっていた。これら両部隊の目的はサンドゲート(Sandgate)であり、部隊が目標に向かい移動している間に空軍の輸送機がフランスにとって返し第一波を援護する第二波となるエドガー・シュテンツラー(en:Edgar Stentzler)少佐の大隊を運んでくることになっていた。
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