戦争体験 - 政治と詩
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「フランシス・ポンジュ」の記事における「戦争体験 - 政治と詩」の解説
1914年、15歳のときに第一次世界大戦が勃発。これを機に、ポンジュは政治への関心を深めていった。1916年、法学のバカロレアを取得した後、高等師範学校の受験準備のためにパリに出て、リセ・ルイ=ル=グランに入学。ジャン・ド・ボンヌフォン(フランス語版)主宰の詩誌『プレスキル(半島)』に初めてソネット(十四行詩)が掲載された。「憎しみを抱き続けるために」と題する詩で、彼の政治への深い関心、とりわけ、国民の団結という当時の理念に沿った好戦的な愛国主義への傾倒が伺われる。ポンジュの家族(主に父親)との書簡(未刊行のものを含む)から、この頃のポンジュの政治への関心と詩作との関連性を分析したブノワ・オークレールは、当時のポンジュは愛国的・英雄的行為に自己の存在理由を見いだそうとし、詩をこのための手段と考えていたと論じている。 翌年1917年にソルボンヌ大学の法学・哲学科に入学するが、試験に2度失敗した。最初は同年11月の哲学の学士号取得のための試験で、筆記試験に合格した後、口頭試験に臨んだ。課題は「精神生活において功利主義的な動機が担う役割は何か」というものであったが、ポンジュはこのとき、道徳・精神に関する彼の解答(表現)が自分の外部にある基準に従った評価を受けるということ、そのために自分の正直な気持に反した解答(表現)をしなければならないという矛盾した状況に直面し、言葉を発することができなかった。翌1918年3月の高等師範学校の受験でも同様に、筆記試験には合格したものの、口頭試験では言葉が一言も出なかったために落第した。ポンジュはこれについて父親宛の手紙に、「言葉をつなげること」ができずに深い無力感と徒労感を覚えたと書いているが、オークレールは試験前日にパリが空爆を受けたこと、これによって彼が受けた衝撃を考えると、彼の葛藤は一層複雑であると指摘する。 実際、ポンジュは1916年に従兄のマルク・ソーレルが戦死したのを機に、学業を中断して、志願兵として出征する決意をしたが、急性虫垂炎に罹って断念せざるを得なかったという経緯がある。この希望が実現し、ファレーズ(カルヴァドス県)の歩兵連隊に入隊したのは、試験失敗の翌月、1918年4月のことである。ところが、前線に送られ、歴史的事件に身をもって関わることで、これまで抱いていた信念が崩れていく。たとえば、1918年10月13日には、前線では多くの出来事が次々と起こるために茫然自失となって、物事を客観的に見ることができないという趣旨の手紙(未刊行)を父親に書き送っている。また、1919年の冬に、ジフテリアを患ってシャンティイの戦時病院に移されたときに書かれた「私たちの温室の散歩」では、言葉に対して「助けたまえ!もはや踊るすべも、身振りの秘密もわからず、動作による直接的表現を行う勇気も知恵も持たない人間を助けたまえ!」と訴えており、ポンジュにとって詩はもはや政治参加の手段ではないこと、むしろ政治参加によって表現の危機に陥っていることがわかる。こうして、当初は好戦的な愛国心を抱いていた彼が、軍隊が個人に強いる服従と「馴致」に反発を覚えるようになり、実際、軍の規律に違反してマント=ラ=ジョリーの駐屯地から無許可で外出したために、終戦時には身柄を拘束されていた。オークレールはこれを政治参加(アンガジュマン)から離脱・解放(デガジュマン)への転換と捉えている。すなわち、戦争体験によってポンジュのなかに生じたこのような葛藤と転向が詩人としての方向を決定づけたのであり、このことは、後に詩人としてのポンジュが政治や革命思想、さらには芸術・文化革命を社会革命につなげようとしたシュルレアリスムと常に一定の距離を置いていたことを理解するうえで重要になる。
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