第2リヨン公会議とは? わかりやすく解説

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第2リヨン公会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/28 06:19 UTC 版)

第2リヨン公会議(だい2リヨンこうかいぎ)は、1274年リヨン(現在のフランス南東部の都市)で行われたキリスト教公会議十字軍の派遣、正教会との和解、教皇選挙(コンクラーヴェ)制度の見直しが話し合われた。イスラム教徒への対抗上招かれたクビライの使節が参加していたことが、後にフランシスコ会ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノ大都へ赴いて中国に初めてカトリックを伝えるきっかけとなった。

経緯

1268年教皇クレメンス4世の没後、教皇位は空位という異常事態が続いていた。これは枢機卿達が派閥をつくって争い、教皇選出で合意に達することができなかったからである。ようやく1271年になって選出された教皇グレゴリウス10世は教皇選挙制度の見直しこそが急務であることをよく認識していた。同時に初期の意気込みも空しく尻すぼみになっていた聖地の回復、十字軍運動の建て直しもしなければならなかった。

そこで1273年になって公会議の参加者が召集され、翌年の1274年5月7日にリヨンにおいて開会が宣言された。枢機卿団と500人を超える司教、各地の修道院長と代表たちなど参加者は1000人を越えるという非常にスケールの大きな公会議であった。会議は、5月18日、6月4日/7日、7月6日、7月16日、7月17日の計5回行われた。

中世の公会議の常として世俗の権力の代表や使節たちも参加していた。その中にはアラゴン王国ハイメ1世や参加を要請されていたクビライの使節も見られた。当代きっての大神学者トマス・アクィナスは公会議への参加を要請され、ナポリからリヨンへ向かっていたが途上、フロジノーネに近いフォッサノヴァ修道院で客死した。トマスと並び称された神学者ボナヴェントゥラは参加できた(しかし、会期中の7月15日に同地で死去)。また正教会との分裂収拾を目指して東ローマ帝国皇帝ミカエル8世パレオロゴスに参加を呼びかけた。当時、シチリア王シャルル・ダンジューが「十字軍」を名目に東ローマ帝国征服を計画していたので、ミカエル8世はこれを牽制するために教皇の呼びかけに応じ、代理使節や高位聖職者を派遣してきた。

第一の議題である十字軍問題については、その後六年分の十分の一税を十字軍派遣の資金にあてることが決定された。アラゴン王ハイメ1世はただちに十字軍を編成して派遣する事を主張したが、出席していた騎士修道会の代表が聖地の現状に鑑みて反対したため、立ち消えとなった。

第二の議題である正教会との和解については、東方教会側がローマ教皇の首位権などを認め、議論の中心であった「フィリオ・クエ」(子からも)という言葉を含んだ信仰宣言を唱えるかわりに、西方教会は東方教会がこれまで保持してきた信仰の伝統を認めるという合意に達した。ここにおいて東西教会の合同が達成されたかのように見えたが、結局これは東ローマ皇帝の政治的思惑から成立した合同であり、東方教会の主教や聖職者たちが受け入れなかったため、見せ掛けだけのものとして終わった。

第三の議題であった教皇選挙制度の改善に関しては、教皇没後ただちに枢機卿達が選出を始めること、選出において枢機卿達は外界と遮断される事等、この時決定された新方式は現代に至るまでコンクラーヴェの基準になっている。

また、同会議ではフランシスコ会ドミニコ会などの新修道会の扱いについて議論し、ハプスブルク伯ルドルフカスティーリャアルフォンソ10世(ハイメ1世の婿)がローマ王の座を巡って争った件に関しては、仲裁を求められた公会議と教皇がルドルフにローマ王たる権利を認めることで決着した。これは大空位時代の終結、ひいてはハプスブルク家のヨーロッパでの隆盛の最初の一歩となった。


第2リヨン公会議 (1274)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 07:07 UTC 版)

フランクとモンゴルの同盟」の記事における「第2リヨン公会議 (1274)」の解説

1274年教皇グレゴリウス10世2回目リヨン公会議招集したアバカは13-16人のモンゴル代表団送り、特にメンバーのうちの3名が公開洗礼受けた際、大きな物議引き起こしたアバカラテン語通訳だったリカルドゥス英語版)は会議において、アバカの父フレグの下で以前西欧イルハン朝の関係を概説した中で、フレグキリスト教国の使節彼の宮廷迎え入れた後、彼はハーン対する彼らの崇拝引き換えに、東方正教会キリスト教徒に対して税と賦役免除同意したことを示す報告書提出したリカルドゥスによると、フレグまた、西欧諸国公館使節対す嫌がらせ禁止し西欧諸国エルサレム返還することを約束したフレグの死の後についても、彼の息子アバカもまだシリアからマムルーク朝追い出す固く決心していたことを、リカルドゥス会議の中で保証した会議で、グレゴリウス10世は、彼の信仰熱意のための章典」における大いなる計画整備し、以下の4つの要素を含む、モンゴル連携した新たな十字軍実行発布した。すなわち、3年新しい税を課すこと、サラセン人 (この時代イスラム教徒全般を指す) との貿易禁止イタリア海洋共和国英語版) (この時代以降台頭するジェノヴァヴェネツィアピサラグサ等に代表される海上貿易主要な収入源としたイタリア共和国群)による船舶補給協定西方教会諸国ビザンチン帝国パレオロゴス家、モンゴルイルハン朝のアバカとの同盟締結、の4つである。それから、アバカジョージアのヴァサリ兄弟によって案内され別の使節送り西欧君主達に軍の準備状況通知したグレゴリウス10世は、十字軍彼の教皇大使同行させ、イルハン朝との軍事作戦調整担当させるつもりであると応えた。 しかし、教皇計画は他の西欧君主らには支持されず、十字軍対す熱意失われていった。ただ1人西欧君主の中で初老アラゴンハイメ1世だけが直ち十字軍編成して派遣する事を主張したが、会議を動かすことは出来なかった。新たな十字軍派遣のための資金調達計画されたが、完遂されなかった。この計画1276年1月10日グレゴリウス10世死によって基本的に停止された。そして、この遠征融資するために集められ資金は、代わりにイタリアで分配された。

※この「第2リヨン公会議 (1274)」の解説は、「フランクとモンゴルの同盟」の解説の一部です。
「第2リヨン公会議 (1274)」を含む「フランクとモンゴルの同盟」の記事については、「フランクとモンゴルの同盟」の概要を参照ください。

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