第2リヨン公会議
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第2リヨン公会議(だい2リヨンこうかいぎ)は、1274年にリヨン(現在のフランス南東部の都市)で行われたキリスト教の公会議。十字軍の派遣、正教会との和解、教皇選挙(コンクラーヴェ)制度の見直しが話し合われた。イスラム教徒への対抗上招かれたクビライの使節が参加していたことが、後にフランシスコ会員ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノが大都へ赴いて中国に初めてカトリックを伝えるきっかけとなった。
- 1 第2リヨン公会議とは
- 2 第2リヨン公会議の概要
第2リヨン公会議 (1274)
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「フランクとモンゴルの同盟」の記事における「第2リヨン公会議 (1274)」の解説
1274年、教皇グレゴリウス10世は2回目のリヨン公会議を招集した。アバカは13-16人のモンゴル代表団を送り、特にメンバーのうちの3名が公開の洗礼を受けた際、大きな物議を引き起こした。アバカのラテン語通訳だったリカルドゥス(英語版)は会議において、アバカの父フレグの下で以前の西欧とイルハン朝の関係を概説した中で、フレグがキリスト教国の使節を彼の宮廷に迎え入れた後、彼はハーンに対する彼らの崇拝と引き換えに、東方正教会のキリスト教徒に対して税と賦役の免除に同意したことを示す報告書を提出した。リカルドゥスによると、フレグはまた、西欧諸国の公館、使節に対する嫌がらせを禁止し、西欧諸国にエルサレムを返還することを約束した。フレグの死の後についても、彼の息子アバカもまだシリアからマムルーク朝を追い出すと固く決心していたことを、リカルドゥスは会議の中で保証した。 会議で、グレゴリウス10世は、彼の「信仰の熱意のための章典」における大いなる計画を整備し、以下の4つの要素を含む、モンゴルと連携した新たな十字軍の実行を発布した。すなわち、3年間新しい税を課すこと、サラセン人 (この時代のイスラム教徒全般を指す) との貿易の禁止、イタリアの海洋共和国(英語版) (この時代以降に台頭するジェノヴァ、ヴェネツィア、ピサ、ラグサ等に代表される海上貿易を主要な収入源としたイタリアの共和国群)による船舶の補給協定、西方教会諸国とビザンチン帝国パレオロゴス家、モンゴルイルハン朝のアバカとの同盟締結、の4つである。それから、アバカはジョージアのヴァサリ兄弟によって案内された別の使節も送り、西欧の君主達に軍の準備状況も通知した。グレゴリウス10世は、十字軍に彼の教皇大使を同行させ、イルハン朝との軍事作戦の調整を担当させるつもりであると応えた。 しかし、教皇の計画は他の西欧の君主らには支持されず、十字軍に対する熱意は失われていった。ただ1人、西欧君主の中で初老のアラゴンのハイメ1世だけが直ちに十字軍を編成して派遣する事を主張したが、会議を動かすことは出来なかった。新たな十字軍派遣のための資金調達が計画されたが、完遂されなかった。この計画は1276年1月10日のグレゴリウス10世の死によって基本的に停止された。そして、この遠征に融資するために集められた資金は、代わりにイタリアで分配された。
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