第三次遠征とは? わかりやすく解説

第三次遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/15 14:00 UTC 版)

西夏遠征」の記事における「第三次遠征」の解説

1209年秋、再び西夏侵入したモンゴル軍は、今度西夏国王襄宗世子の軍を破りいくつかの都城落として首都興慶現在の銀川)に迫った興慶籠城戦続け襄宗対しチンギス・カン水攻め行おうしたもの失敗し、かえって自陣洪水氾濫することとなり、撤退余儀なくされた。チンギス・カンは自ら講和使者出し襄宗が娘をチンギス・カンの妃として差し出すことで講和締結されモンゴル軍撤退した結果として西夏モンゴル軍撃退したとなったが、3度にわたるモンゴル軍の侵入国土荒廃し西夏国力はすでに限界達していた。

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第三次遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/10 06:00 UTC 版)

モスクワ・リトアニア戦争 (1368年-1372年)」の記事における「第三次遠征」の解説

1372年になってトヴェリモスクワとの間で争い勃発したアルギルダス最初に自身長子であるポラツク公アンドリュス、弟であるケーストゥティスとその息子ヴィータウタス、及びドミトリユス・ドゥルツキスを派遣し、それから遅れて自身がリュブトゥスクへ向かって進軍した。同都市にてリトアニア軍トヴェリ軍が合流したその後ドミートリー率いモスクワ軍が密かに接近してきた。リトアニア警備兵達はモスクワ軍によって壊滅させられた。両軍ともその場離れて互いにそれぞれの深い窪地前にして対峙した。数日後になって両者の間で7月31日から10月31日までの休戦結ばれた条約アルギルダスケーストゥティス兄弟及びスモレンスク公スヴャトスラフの名で証明されたが、そこにはトヴェリ大公ミハイルブリャンスク公ドミートリー、その他諸侯含まれていた。アルギルダスは、ミハイルモスクワ奪われ領地奪還に関しては彼自身委ねることにし、仮にミハイルモスクワとの間で戦を起こさなかったとしてもそれに介入しないことにした。

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