第三次遠征
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1209年秋、再び西夏に侵入したモンゴル軍は、今度は西夏の国王襄宗の世子の軍を破り、いくつかの都城を落として首都興慶(現在の銀川)に迫った。興慶で籠城戦を続ける襄宗に対し、チンギス・カンは水攻めを行おうとしたものの失敗し、かえって自陣に洪水が氾濫することとなり、撤退を余儀なくされた。チンギス・カンは自ら講和の使者を出し、襄宗が娘をチンギス・カンの妃として差し出すことで講和は締結され、モンゴル軍は撤退した。結果として西夏はモンゴル軍を撃退した形となったが、3度にわたるモンゴル軍の侵入で国土は荒廃し、西夏の国力はすでに限界に達していた。
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第三次遠征
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「モスクワ・リトアニア戦争 (1368年-1372年)」の記事における「第三次遠征」の解説
1372年になってトヴェリとモスクワとの間で争いが勃発した。アルギルダスは最初に自身の長子であるポラツク公アンドリュス、弟であるケーストゥティスとその息子のヴィータウタス、及びドミトリユス・ドゥルツキスを派遣し、それから遅れて自身がリュブトゥスクへ向かって進軍した。同都市にてリトアニア軍とトヴェリ軍が合流したその後にドミートリー率いるモスクワ軍が密かに接近してきた。リトアニアの警備兵達はモスクワ軍によって壊滅させられた。両軍ともその場を離れて互いにそれぞれの深い窪地を前にして対峙した。数日後になって両者の間で7月31日から10月31日までの休戦が結ばれた。条約はアルギルダス、ケーストゥティス兄弟及びスモレンスク公スヴャトスラフの名で証明されたが、そこにはトヴェリ大公ミハイル、ブリャンスク公ドミートリー、その他諸侯も含まれていた。アルギルダスは、ミハイルのモスクワに奪われた領地の奪還に関しては彼自身に委ねることにし、仮にミハイルがモスクワとの間で戦を起こさなかったとしてもそれに介入しないことにした。
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