第三次選挙法改正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:17 UTC 版)
「ウィリアム・グラッドストン」の記事における「第三次選挙法改正」の解説
1883年に入るとグラッドストンは選挙法改正に意欲を持つようになった。 ディズレーリ主導の1867年の第二次選挙法改正によって、都市選挙区は原則として戸主(および10ポンド以上間借人)であれば選挙権が与えられるようになったが、州選挙区は5ポンド以上の年価値の土地保有者という条件になっていた。そのためいまだ小作人や農業・鉱山労働者は選挙権を有していなかった。 グラッドストンが1884年2月に議会に提出した選挙法改正法案は戸主選挙権制度を都市選挙区だけではなく、州選挙区にも広げようというものであった。 しかし問題は選挙区割りだった。1880年代になると選挙権の拡大で国民の投票傾向にも変化が生じており、一般に保守党は大都市、自由党は中小都市や農村、スコットランドやウェールズを基盤とするようになっていた。選挙区割りを見直さずにこの法案を通すことは保守党に不利であったため、法案は、自由党が多数の庶民院こそ通過したものの、保守党が多数の貴族院からは否決された。 この敗北で解散総選挙を求める声が上がったが、グラッドストンは「私は選挙法改正について庶民院・貴族院のどちらか正しいかだけを問うために解散総選挙するつもりはない。もし私が解散総選挙をすることがあるとすれば、それは貴族院改革を問うためだ」と述べて一蹴した。8月には女王にも貴族院改革の可能性を報告した。しかしこれに不安を覚えた女王は貴族院の主張を支持し、貴族院と交渉をもつことを政府に要求した。グラッドストンは女王の態度に怒りを感じながらも、貴族院との交渉に応じることにした。 グラッドストンは女王に仲裁を頼み、女王の尽力で11月に保守党貴族院院内総務ソールズベリー侯爵、同党庶民院院内総務スタッフォード・ノースコートとの会談の席が設けられた。グラッドストン側が譲歩した形で大都市議席を増やすことで両者は合意した。またいくつかの選挙区を除いて原則小選挙区制度にすることでも合意した。 この妥協によって選挙法改正法案は貴族院も通過し、第三次選挙法改正が達成された。この改正でほぼ男子普通選挙に近い状態ができあがった(この段階でも選挙権がない成人男性は、下僕、家族の家で暮らしている独身者、住居のない者など)。
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