グラッドストンとの対立
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「ヴィクトリア (イギリス女王)」の記事における「グラッドストンとの対立」の解説
1868年11月の総選挙に自由党が勝利し、第一次グラッドストン内閣が成立した。ウィリアム・グラッドストンはもともと保守党の議員だったが、1846年の穀物法廃止をめぐる保守党分裂の際に自由貿易を奉じるピール派に属して1859年に自由党に合流、1867年にラッセル伯爵の引退で代わって自由党党首となった人物である。敬虔なイングランド国教会の信徒であり、キリスト教の精神を政治に反映させることに使命感を持っていた。1868年はアイルランド独立を目指す秘密結社フェニアンの暴動が問題になった年であり、グラッドストンはアイルランド問題についてアイルランド国教会の廃止、アイルランド土地制度改革、アイルランド人に多いカトリックの信仰を侵されることのない大学の創設という3つの公約を掲げて総選挙を戦い、勝利したのだった。 政権についたグラッドストンは、アイルランド土地法によりアイルランド小作農の権利を保護し、またアイルランド国教会を廃止した。しかし前者は地主貴族、後者はヴィクトリア女王が反発した。1869年初めにグラッドストンはアイルランドにも女王の居城を置いて積極的にアイルランドを訪問するべきと進言したが、ヴィクトリアは拒否した。女王はディズレーリの退任後、再び公務に出席しなくなっていたが、それに対してグラッドストンがたびたび公務復帰を要求してくることも女王には不快だった。女王はグラッドストンからの公務復帰要請は退位をちらつかせてでも拒否した。 1874年の総選挙での自由党の敗北により、グラッドストンは首相職をディズレーリに譲り、1875年に自由党党首職からも退いたが、その後も自由党の実質的な指導者であり続け、ディズレーリ保守党政権批判の急先鋒として「人民のウィリアム」などと呼ばれた。自分のお気に入りの首相を攻撃しまくるグラッドストンへの女王の嫌悪感はいよいよ強まり、ヴィッキーに宛てた手紙の中では「グラッドストン氏は狂人のように進撃しています。私は代議士の中で、これほど愛国心が欠如し、不謹慎な人物を他に知りません。」と怒りを露わにしている。 1880年4月の総選挙にディズレーリ率いる保守党が敗れたため、再びグラッドストンに大命降下せねばならない事態となったが、ヴィクトリアは自由党政権を誕生させるとしてもグラッドストンの首相就任だけは阻止したいと願い、自由党下院指導者ハーティントン侯爵を首相にしようと画策したが、グラッドストンや自由党内からの反発を招き、結局グラッドストンに再度組閣の大命を与えることを余儀なくされた。 グラッドストンには君主は象徴的役割に限定されるべきという持論があり、「女王の忠臣」ディズレーリ時代を機に本格的に政治に介入し始めていたヴィクトリアを再び政治から遠ざけようと図った。彼はアイルランド問題についてヴィクトリアの意見を聞くつもりはなかった。ヴィクトリアは皇太子バーティ宛ての手紙の中で「女王に相談すべき大問題なのに女王を完全に無視するこの恐るべき急進的政府には仮面を付けた共和主義者が大勢いる。彼らはアイルランド自治派に頭が上がらない。グラッドストンは計り知れない過ちを犯している。」と怒りを露わにしている。 1884年、地方の炭鉱などの労働者にまで選挙権を広げる第三次選挙法改正法案が議会に提出されたが、地方に基盤を持つ自由党と都市部に基盤を持つ保守党の間で紛糾し、8月にはグラッドストンもヴィクトリアに仲裁を依頼する羽目になった。女王がグラッドストンと保守党党首ソールズベリー侯爵の間を取り持った結果、11月に自由党と保守党の妥協が成立し、第三次選挙法改正法案が可決されて有権者数が更に増加した。これにはグラッドストンも女王の強力な仲裁に深く感謝した。 1885年6月に予算案が否決されたことでグラッドストン内閣が辞職し、保守党のソールズベリー侯爵に大命降下した。ヴィクトリアはグラッドストン辞職を心より喜んだが、11月の総選挙は自由党とアイルランド国民党が勝利した。グラッドストンはソールズベリー侯爵内閣の倒閣のためアイルランド国民党と手を組もうといよいよアイルランド自治を主張し始めた。グラッドストンが再び首相に就任することを恐れるヴィクトリアは自由党内のアイルランド自治反対派をソールズベリー侯爵と連携させようとした。さらにソールズベリー侯爵内閣に「王室のお墨付き」を与えようと1886年の議会開会式に10年ぶりに出席した(これがヴィクトリア最後の議会開会式出席となった)。 しかしこうした女王の工作もむなしく、自由党とアイルランド国民党の共同はなり、ソールズベリー侯爵は議会で敗北して辞職に追い込まれた。ヴィクトリアはアイルランド自治に反対する自由党議員ジョージ・ゴッシェンを召集して後継首相について諮問することでなおもグラッドストンに大命降下するのを阻止しようとしたが、ゴッシェンが参内を拒否したため、1886年2月1日グラッドストンに三度目の組閣の大命を与えることを余儀なくされた。しかしヴィクトリアは組閣後ただちに倒閣に動き、保守党と自由党内のアイルランド自治法反対派が党を割って創設した自由統一党の連携の仲介を取り、その結果6月にアイルランド自治法案は僅差で否決された。続く解散総選挙もグラッドストンの自由党の敗北、保守党の勝利におわり、グラッドストンは辞職した。 しかし1892年7月の総選挙で保守党が敗北した結果、8月にグラッドストンに四度目の組閣の大命を与える羽目となった。グラッドストンはライフワークのアイルランド自治法案をまた提出した。今回は自由党内が一つにまとまっており、またアイルランド国民党が指導者チャールズ・スチュワート・パーネルを失って立場が弱い時期だったため無条件に自由党に協力した結果、庶民院で同法案が可決された。しかしソールズベリー侯爵の尽力で貴族院が圧倒的多数で否決した。ヴィクトリアはソールズベリー侯爵の功績を称えている。グラッドストンももはや高齢であり、ついにアイルランド自治法案を諦め、1894年に引退を決意して辞職を願い出た。ヴィクトリアは二度とグラッドストンの顔を見ずに済むことに大喜びした。彼の最後の伺候にも労いの言葉はまったくかけなかった。 グラッドストンは1898年に死去したが、ヴィクトリアは弔意を出すことを求められても「嫌ですよ。私はあの男が好きではありません。気の毒と思っていないのにどうして気の毒などと言えるでしょうか」と述べて断っている。
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