グラッドストンとの対立とは? わかりやすく解説

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グラッドストンとの対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:41 UTC 版)

ヴィクトリア (イギリス女王)」の記事における「グラッドストンとの対立」の解説

1868年11月総選挙自由党勝利し第一次グラッドストン内閣成立したウィリアム・グラッドストンはもともと保守党議員だったが、1846年穀物法廃止をめぐる保守党分裂の際に自由貿易奉じるピール派属して1859年自由党合流1867年ラッセル伯爵引退で代わって自由党党首となった人物である。敬虔なイングランド国教会信徒であり、キリスト教精神政治反映させることに使命感持っていた。1868年アイルランド独立目指す秘密結社フェニアン暴動問題になった年であり、グラッドストンアイルランド問題についてアイルランド国教会廃止アイルランド土地制度改革アイルランド人に多いカトリック信仰侵されることのない大学創設という3つの公約掲げて総選挙戦い勝利したのだった政権についたグラッドストンは、アイルランド土地法によりアイルランド小作農権利保護し、またアイルランド国教会廃止した。しかし前者地主貴族後者ヴィクトリア女王反発した1869年初めにグラッドストンアイルランドにも女王居城置いて積極的にアイルランド訪問するべきと進言したが、ヴィクトリア拒否した女王ディズレーリ退任後、再び公務出席しなくなっていたが、それに対してグラッドストンがたびたび公務復帰要求してくることも女王には不快だった女王グラッドストンからの公務復帰要請退位ちらつかせてでも拒否した1874年総選挙での自由党敗北により、グラッドストン首相職ディズレーリ譲り1875年自由党党首職からも退いたが、その後自由党実質的な指導者であり続けディズレーリ保守党政権批判急先鋒として「人民ウィリアム」などと呼ばれた自分お気に入り首相攻撃しまくるグラッドストンへの女王嫌悪感はいよいよ強まりヴィッキー宛てた手紙の中では「グラッドストン氏は狂人のように進撃しています。私は代議士の中で、これほど愛国心欠如し不謹慎な人物を他に知りません。」と怒り露わにしている。 1880年4月総選挙ディズレーリ率い保守党敗れたため、再びグラッドストン大命降下せねばならない事態となったが、ヴィクトリア自由党政権誕生させるとしてもグラッドストン首相就任だけは阻止したい願い自由党下院指導者ハーティントン侯爵首相にしようと画策したが、グラッドストン自由党内からの反発招き結局グラッドストン再度組閣の大命与えることを余儀なくされた。 グラッドストンには君主象徴的役割限定されるべきという持論があり、「女王忠臣ディズレーリ時代機に本格的に政治介入し始めていたヴィクトリアを再び政治から遠ざけよう図った。彼はアイルランド問題についてヴィクトリア意見を聞くつもりはなかった。ヴィクトリア皇太子バーティ宛ての手紙の中で「女王相談すべき大問題なのに女王を完全に無視するこの恐るべき急進的政府には仮面付けた共和主義者大勢いる。彼らはアイルランド自治派に頭が上がらないグラッドストン計り知れない過ち犯している。」と怒り露わにしている。 1884年地方炭鉱などの労働者にまで選挙権広げる第三次選挙法改正法案議会提出されたが、地方基盤を持つ自由党都市部基盤を持つ保守党の間で紛糾し8月にはグラッドストンヴィクトリア仲裁依頼する羽目になった女王グラッドストン保守党党首ソールズベリー侯爵の間を取り持った結果11月自由党保守党妥協成立し第三次選挙法改正法案可決され有権者数が更に増加した。これにはグラッドストン女王強力な仲裁深く感謝した1885年6月予算案否決されたことでグラッドストン内閣辞職し保守党ソールズベリー侯爵大命降下した。ヴィクトリアグラッドストン辞職心より喜んだが、11月総選挙自由党アイルランド国民党勝利したグラッドストンソールズベリー侯爵内閣倒閣のためアイルランド国民党と手を組もうといよいよアイルランド自治主張し始めたグラッドストンが再び首相に就任することを恐れヴィクトリア自由党内のアイルランド自治反対派ソールズベリー侯爵連携させようとした。さらにソールズベリー侯爵内閣に「王室お墨付き」を与えよう1886年議会開会式10年ぶりに出席した(これがヴィクトリア最後議会開会式出席となった)。 しかしこうした女王工作むなしく自由党アイルランド国民党共同はなり、ソールズベリー侯爵議会敗北して辞職追い込まれた。ヴィクトリアアイルランド自治反対する自由党議員ジョージ・ゴッシェン召集し後継首相について諮問することでなおもグラッドストン大命降下するのを阻止しようとしたが、ゴッシェンが参内拒否したため、1886年2月1日グラッドストン三度目組閣の大命与えることを余儀なくされた。しかしヴィクトリア組閣後ただちに倒閣動き保守党自由党内のアイルランド自治法反対派が党を割って創設した自由統一党連携仲介取りその結果6月アイルランド自治法案僅差否決された。続く解散総選挙グラッドストン自由党敗北保守党勝利におわり、グラッドストン辞職した。 しかし1892年7月総選挙保守党敗北した結果8月グラッドストン四度目の組閣の大命与え羽目となったグラッドストンライフワークアイルランド自治法案をまた提出した今回自由党内が一つまとまっており、またアイルランド国民党指導者チャールズ・スチュワート・パーネル失って立場が弱い時期だったため無条件自由党協力した結果庶民院同法案が可決された。しかしソールズベリー侯爵尽力貴族院圧倒的多数否決したヴィクトリアソールズベリー侯爵功績称えている。グラッドストンももはや高齢であり、ついにアイルランド自治法案諦め1894年引退決意して辞職願い出たヴィクトリア二度とグラッドストンの顔を見ずに済むことに大喜びした。彼の最後伺候にも労いの言葉はまったくかけなかった。 グラッドストン1898年死去したが、ヴィクトリア弔意を出すことを求められても「嫌ですよ。私はあの男が好きではありません。気の毒と思っていないのにどうして気の毒なと言えるでしょうか」と述べて断っている。

※この「グラッドストンとの対立」の解説は、「ヴィクトリア (イギリス女王)」の解説の一部です。
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