モンゴル軍との戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 06:47 UTC 版)
「ムザッファル・クトゥズ」の記事における「モンゴル軍との戦争」の解説
フレグの軍がシリアに向けて進軍している時、ダマスカスのナーセルは配下の将軍ザイヌッディーン・アル=ハーフィズィーからフレグに降伏し、身の安全と領土を確保するよう勧められていた。アイバク、クトゥズと対立してシリアに出奔していたバフリー・マムルークのバイバルスはハーフィズィーの提案を聞いて激怒し、ナーセルの暗殺と新たなダマスカスの指導者の擁立を企てた。しかし、計画は失敗に終わり、バイバルスたちバフリー・マムルークはエジプトに帰国した。クトゥズはバフリー・マムルークの帰順を歓迎し、バイバルスにカリューブ(英語版)の町を与えた。また、モンゴル軍の迎撃に際してクトゥズはナーセルに地位の安定と援軍の提供を約束する書簡を送り、ナーセルの警戒を解いた。 メソポタミアを制圧したフレグはアレッポへの進軍を開始した。モンゴル軍の接近を知ったアレッポとダマスカスの住民は避難を開始するが、避難民は冬の寒さに倒れ、移動中に盗賊の襲撃を受ける。1260年1月にアレッポは陥落し、市内でモンゴル兵による虐殺と略奪が行われた。アレッポの陥落を知ったナーセルはダマスカスを捨ててエジプトに亡命したが、クトゥズは彼の受け入れを拒否し、エジプトの国境地帯に留まったナーセルはモンゴル軍に捕らえられる。 2月にダマスカスが陥落した後、モンゴル軍からエジプトに降伏を求める使者が送られる。クトゥズは部将を集めて協議を行い、バイバルスらの主戦論を採用してモンゴル軍への徹底抗戦を宣言した。フレグが送った4人の使者を斬首し、彼らの首をカイロのズワイラ門(英語版)に掲げた。戦費を捻出するためにカイロで臨時的な徴税を行い、主君を見捨ててエジプトに逃亡したナーセルの従者と部下の財産を没収した。 モンゴル軍からの攻撃が行われる前に敵軍に先制攻撃を加えるため、マムルーク軍はエジプトを出発した。マムルーク軍がサラーヒーヤに到達した時、クトゥズは将軍たちを集めて攻撃のタイミングを協議したが、将軍たちの中からモンゴル兵に対して恐れを抱いてサラーヒーヤに留まることを望む者が現れた。クトゥズは演説の中で前進を恐れる者を弾劾して進軍の意思を表明し、配下の将軍たちに従軍を誓約させる。バイバルスが率いるマムルーク軍の先発隊は、ガザに駐屯していたモンゴル軍の先遣部隊に勝利を収め、シリア各都市のイスラム教徒は緒戦の勝利に勇気づけられた。ガザに1日駐屯した後、クトゥズは海アッコンの十字軍国家に向けて軍を進めた。モンゴル軍は長年イスラーム勢力と敵対していた十字軍に同盟の締結を提案していたが、十字軍はモンゴル軍をより強大な勢力として認識していた。クトゥズは十字軍勢力から中立の保障を取り付けただけでなく、マムルーク軍は十字軍の勢力下にある土地の通行を認められ、駐屯時に物資の補給を受けることができた。3日間十字軍支配下の土地で駐屯したマムルーク軍はモンゴル軍がヨルダン川を通過した報告を受け取り、クトゥズとバイバルスはパレスチナのアイン・ジャールート平原にモンゴル軍を誘導する作戦を立てる。クトゥズはアイン・ジャールート付近の森林に主力を配置し、バイバルスの先遣隊を派遣した。 9月3日にマムルーク軍とモンゴル軍はアイン・ジャールートで激突する(アイン・ジャールートの戦い)。モンゴル軍と対峙した左翼は恐怖に駆られて後退するが、クトゥズは味方を鼓舞し、モンゴル軍に対して突撃を繰り返した。乱戦の中でクトゥズは兜を脱ぎ捨て、自らも剣を取ってモンゴル兵と戦った。キト・ブカを初めとする大半の将校が戦死したモンゴル軍は潰走し、クトゥズとバイバルスは敗残兵を追撃・殺害する。勝敗の決着を見届けたクトゥズは馬から降り、ラカアの祈祷を二度行って神への感謝の意を示した。アイン・ジャールートの戦勝はマムルーク朝の名声を高め、イスラーム世界での地位を確立した。
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