ホラズム侵攻とは? わかりやすく解説

ホラズム侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 05:40 UTC 版)

チンギス・カンの西征」の記事における「ホラズム侵攻」の解説

詳細は「モンゴルのホラズム・シャー朝征服」を参照 1219年モンゴル高原を弟のテムゲ・オッチギン任せチンギス・カンホラズム・シャー朝への遠征開始したモンゴル軍オトラル到着すると、第一次対金戦争の時と同様全軍三つ分け整然とホラズム侵入した一方でホラズム・シャー朝専守防衛基本戦略とし、各都市ごとに分散して防衛させた。これは戦力分散にあたり、後によく批判の的になったが、そうせざるをえない原因ホラズムにあった。もともとホラズム急激な発展は、アラル海北方遊牧するテュルク系カンクリ族を味方引き入れたことが背景にあったが、カンクリ族が実際に支持するのは国王アラーウッディーン・ムハンマド実母テルケン・ハトゥン(中国語版)であり、ホラズムモンゴル来襲時にはこの母子によって二分された状態にあった結果的にカンクリ族の戦場での反乱恐れたムハンマド野戦でのモンゴル軍迎撃断念せざるを得ずモンゴル軍引き入れて長期戦持ち込み相手撤退するところを反転攻勢する、という作戦をとった。 しかし、おそらく事前に周到に情報収集をしたであろうモンゴル軍は、対金戦争経験活かし冷静に都市各個撃破した。サマルカンドブハラウルゲンチといった名だたる都市を墜とした上、見せしめのため抵抗した都市破壊された。また、この頃チンギス・カン長子ジョチ次子チャガタイとの間でウルゲンチ攻め方で対立があり、三男オゴデイ仲裁入ったことでその器量示したという逸話もある。 完全に読み外れたムハンマドは、カラハン朝から奪い取って首都としたばかりサマルカンドから逃走し、本来の中心地であるマー・ワラー・アンナフルをも見捨てた。そして息子たち撤退命令出しアムダリヤ川越えて西へ逃走していった。この撤退には、アムダリヤ川以南モンゴル軍引きずり込んでゲリラ戦展開しようという狙いあったらしいが、モンゴル軍がこれに冷静に対応したこと、またあまりにも無様な国王撤退によるホラズム軍の指揮系統混乱によって、1220年ホラズム・シャー朝はほぼ崩壊した一方逃走したアラーウッディーン・ムハンマドニシャプール(現イラン・ラザヴィー・ホラーサーン州ネイシャーブール)に立ち寄ったしながらも、結局モンゴル軍との戦争対す指示出したりすることもなくカスピ海西南近くのアーバスクーン島で死んだ

※この「ホラズム侵攻」の解説は、「チンギス・カンの西征」の解説の一部です。
「ホラズム侵攻」を含む「チンギス・カンの西征」の記事については、「チンギス・カンの西征」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ホラズム侵攻」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ホラズム侵攻」の関連用語

ホラズム侵攻のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ホラズム侵攻のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのチンギス・カンの西征 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS