ホラズム征服とアムダリア遠征
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「クタイバ・イブン・ムスリム」の記事における「ホラズム征服とアムダリア遠征」の解説
クタイバの南部での不在の隙をついて、サマルカンド住人はアラブに対し受身の姿勢だった支配者を打倒し、代わりに en:Ghurakを迎えた。クタイバが711/712年の冬にサマルカンドへの行軍を準備していると、ホラズム王よりの外交使節が来て兄弟のKhurrazadhに対する反乱の支援を依頼してきた。クタイバは電光石火の速さで軍勢を進め、兄弟のアブドゥッラフマーンがKhurrazadh の軍を破り、彼は自分の使う1万のホラズム人徴用兵を確保した。しかしホラズム人はクタイバが発ってすぐ反乱を起こし支配者を殺した。年が明けないうちにクタイバはアル=ムギーラ・イブン・アブドゥッラー(al-Mughira ibn Abdullah)率いる軍を派遣してこの地区を鎮圧した。アラブ人は反乱を煽った上流階級のほとんどを虐殺し、ホラズムにアラブの直接統治を導入した。しかし現地の王朝はその場所に残された。 ホラズムを出発すると、軍がだんだんと衰弱し遠征を終わらせなければならなかったため、クタイバはまっさきにメルヴに引き返した。しかし行軍中、クタイバは突如向きを変えサマルカンドへ向かった。ソグド人軍はほとんど解散したので、アラブ人は少ない足手まといで真っ直ぐその都市に向かい包囲を敷いた。Ghurakと都市の住人は決心をもってアラブ人に抵抗し、シャーシュ(タシュケント)とフェルガナの領主に救援を求めた。シャーシュの領主は強力な軍の支援を送ったが、待ち伏せに会いアラブ人に壊滅させられた。アラブの攻城兵器が壁に日々を入れた時この知らせが届き、Ghurakは講和せざるを得なかった。クタイバは最初に驚くほど寛容な条件を承諾した。それは毎年の貢納の支払いと部隊の支給、都市内のモスクの建設とアラブ軍による祝いの礼拝だった。しかし都市にはいると、クタイバは占領して守備兵を置いた。彼の兄弟のいずれか(アブドゥッラフマーンかアブドゥッラー)が統治者として残され、非ムスリムが城塞に入ることを禁ずる命令が出された。Ghurakとその従者は都市を離れ、遥か北に新都市Farankathを建設した。この背信行為によりクタイバはマー・ワラー・アンナフルのほとんどを(仮ではあったが)支配下に置くことが出来たが、同時にソグド人の間での彼の名声は相当損なわれた。 アラブ側の資料では、この時ソグド人の諸侯が西突厥または突騎施(テュルギシュ)部にアラブに対抗する救援を求めたとされるが、この記録の年表と真実性に疑問が付く。 いずれにせよ、次の2年間クタイバはカリフ国の拡大に従事し シルダリヤ川渓谷の支配を得た。大軍が、約20,000人のソグド人の徴用兵の助けを得て、713年前半に渓谷へと入軍した。現地の徴用兵はシャーシュに派遣され、そこを獲得したと伝えられ、一方クタイバはアラブ人とともにホジェンドとフェルガナへと進軍した。この遠征について余り分かっていないが、ホジェンドの前にウシュルーサナen:UshrusanaのMinakでの戦勝が記録され、唐の宮廷にアラブ人使節を送ったことが中国側の資料により裏付けられている。タバリーはクタイバが唐の領土のカシュガルまで進軍したと記録しているが、この主張はH.A.R. Gibbによって却下されている。 714年、クタイバはおそらくシャーシュを拠点として、シルダリヤ川沿いの遠征を再開したが、アル=ハッジャージュ死亡の知らせを受け取りこの作戦は中断された。庇護者の死によって彼の地位は不安定となり、彼は軍を解散するとメルヴへと戻った。
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