ホラズムシャー朝とスンナ派化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 10:24 UTC 版)
「ニザール派」の記事における「ホラズムシャー朝とスンナ派化」の解説
ハサン3世の時代は激動の時代であった。父ムハンマド2世の晩年はホラズムシャー朝の拡大期にあたり、ホラズム・シャー朝の援助を受けたアッバース朝の束の間の復興期でもあった。このような状況下にあってハサン3世は、祖父ハサン2世によるキヤーマの教義を廃止し、さらにスンナ派ウラマーを招聘し、スンナ派シャリーアの実践を命じた。すなわちニザール派としての独自性だけでなく、シーア派イスマーイール派としての立場さえ捨て去ったのである。セルジューク朝以降絶えてなかった強大な軍事力を背景としたホラズムシャー朝の圧力は非常に強いもので、ニザール派は従来の徹底的対立関係を維持することはできず、最低限政治的権力としての独立性を維持するためにホラズムシャー朝などとも是々非々の外交関係を結んで孤立的状況を脱するためにとった政策であったと考えられている。ハサン3世はこの政策に基づき1211年、アッバース朝と和平を結び、ニザール派領域の統治権をアッバース朝カリフ・ナースィルの名において認められた。これはとりもなおさずホラズムシャー朝による認知という意味も持った。ニザール派はこの政策を困難な状況下におけるタキーヤ(信仰秘匿)と解釈して方針を受け入れ、ニザール派領域はその安全を確保したのである。そうしてイルデニズ朝のアタベグ・ウズベグ(Atabeg Uzbek、1210–1225)との同盟によって若干の勢力拡大をしている。 1221年11月ハサン3世は没し、息子アラーウッディーン・ムハンマド(トルコ語版)(ムハンマド3世)があとを継いだ。このときムハンマド3世は9歳で、父の臣下たちによって政務が代行され、スンナ派化政策は継続された。1230年にはホラズムシャー朝の統治者の名によってフトバを読むようにホラズムシャー朝から要請されている。しかしムハンマド3世が政務を執るようになると、スンナ派シャリーアの実践は徐々に弱められるようになった。これはムハンマド3世の個性とも、1231年以降のホラズムシャー朝の急速な弱体化に伴う再度の独立傾向とも考えられる。ニザール派はこの時点でホラズムシャー朝と敵対するアッバース朝およびモンゴル帝国と通好関係を結び、権力空白に乗じて再び拡大に転じた。さらにインドへのニザール派宣教に成功している(ホージャー派を参照)。また文化的繁栄も見た。ナスィールッディーン・トゥースィーなど多くの学者がニザール派領域を訪れ、ハサニ・サッバーフの遺した図書館を利用し研究を行った。しかしムハンマド3世の晩年には迫り来るモンゴル帝国との対立を惹起して抗戦体制に入り、おそらくはこれにも関連した相続争いが起こってしまう。結局1255年12月1日、ムハンマド3世が没すると(一説には信徒に殺害され)、当初の後継者候補で長男ルクヌッディーン・フールシャー(ペルシア語版)があとを継ぐ。ルクヌッディーン・フールシャーは最後のアラムートの支配者である。
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