ホラズム・ペルシア遠征
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「ティムールの征服戦争」の記事における「ホラズム・ペルシア遠征」の解説
政権を掌握したティムールであったが、反抗勢力は存在した。ティムールは彼等を粛清する一方で官庁を整備して政権を順調に経営していった。外征も頻繁に行い、モグーリスタンやホラズムに軍を進めた。後者はスーフィ朝が統治していたが、ティムールは嫡子ジャハーンギールとスーフィ朝の王女を結婚させることで支配下に置いた。 そのティムールの許へ白帳汗国の王子トクタミシュが庇護を求めてきた。バトゥ・オルダ両王朝滅亡後のジョチ・ウルスではトカ・テムル一門が台頭してきたが、そのトカ・テムル一門間で殺し合いが頻発してトクタミシュが逃れてきたのである。ティムールはこれを支持して、白帳のオロス・ハンを破ってハーン位に就けた。トクタミシュは更にサライを支配する青帳汗国を倒してジョチ・ウルスを統一する。かくして、ティムールの威光はキプチャク草原にまで及んだ。この間に嫡子ジャハーンギールの死去と言う悲運に見舞われたものの、北方の安全を確保したティムールは旧フレグ・ウルスの「回復」を目指してペルシアに軍を進めた。 フレグ・ウルス崩壊後のペルシアではモンゴル・トルコ系の豪族が群雄割拠していた。最初に標的となったのがホラーサーンを支配するクルト朝であった。1381年にティムールは三男のミーラーン・シャーにヘラート周辺を攻略させ、自らは難攻不落の要塞と恐れられたフジャンジを攻め落とした。クルト朝のギヤースッディーン・ピール・アリーは徹底抗戦の構えを見せるも、遂にヘラートは陥落した。ティムールは身代金を課すに留めてギヤースッディーン・ピール・アリーの地位を保障したが、1383年に反旗を翻すとこれを殺し、その首でピラミッドを築いた。以後、ヘラートはティムール朝の重要拠点の一つとなる。 翌1384年にティムールはジュルジャーンからマーザンダラーンを支配するモンゴル系のアミール・ワリーを攻めた。大小の河川や密林で覆われたアスタラーバードは工作兵を使って攻め、アミール・ワリーはこれに堪え切れずにレイに逃亡する。ティムールはアミール・ワリーを追い、スルターニーヤに至った。アミール・ワリーは逃亡先で殺され、その首はティムールの許に送られた。
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