カラ・クムの戦い
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カラ・クムの戦い(カラ・クムのたたかい)とは、1219年夏にアラーウッディーン・ムハンマド率いるホラズム軍と、ジョチ率いるモンゴル帝国軍との間で行われた戦闘。
注釈
- ^ 『集史』「チンギス・カン紀」には「チンギス・カンは、述べきたったように、ヒタイ(=金朝領華北)の諸邦の経略をおえて帰還したとき、メルキト部について耳にした。……彼らの蘇りについて(チンギス・カンは)懸念なされ、612年にあたる牛の歳(ヘジラ暦では1216年〜1217年、十二支暦では1217年)、スベエティ・バハードゥルを軍とともに クドゥとその甥たちとの戦いにつかわし、かつ軍のために多くの戦車をしつらえて鉄の釘で堅牢にし、岩石ばかりのところでもすぐにこわれることのないように命じられた」とある。また、『元史』巻121スブタイ(速不台)伝には「丙子(1216年)、帝(チンギス・カン)は諸将とトーラ(禿兀剌)河のカラ・トン(黒林)で会盟し、『誰か能く我が為に滅里吉(メルキト)を征する者あらんや』と問うた。速不台(スブタイ)が自ら行くことを請い、帝(チンギス・カン)は壮としてこれを許した(『元史』巻121列伝8速不台伝,「丙子、帝会諸将於禿兀剌河之黒林、問『誰能為我征滅里吉者』。速不台請行、帝壮而許之。乃選裨将阿里出領百人先行、覘其虚実。速不台継進。速不台戒阿里出曰『汝止宿必載嬰児具以行、去則遺之、使若挈家而逃者』。滅里吉見之、果以為逃者、遂不為備」)」とあり、同じく1216年にメルキト部残党の対処(スブタイの出征)が決められたことが記されている[7]。
- ^ 『聖武親征録』は丁丑(1211年)にスブタイの出征とボロクルの出征、戊寅(1218年)にジェベのクチュルク・カン討伐を続けて記述している(「丁丑。上遣大将速不台抜都以鉄裹車輪、征蔑児乞部、与先遣征西前鋒脱忽察児二千騎合、至嶄河、遇其長、大戦、尽滅蔑児乞還。是歳、吐麻部主帯都剌莎児合既附而叛。上命博羅渾那顔・都魯伯二将討平之、博羅渾那顔卒於彼。戊寅。……別遣哲別攻曲出律可汗、至撒里桓地克之」)。一方、『モンゴル秘史』はこの前後の記述が混乱しており、巻8・199節でスブタイの出征を「乙丑(1205年)」に当たる「丑の年」のこととして詳しく語るが、巻10・236節でも同様にスブタイの出征について簡潔に述べる。巻10・236節では「[236節]スベエテイ・バアトルを、鉄の車もてメルキト(族長)のトクトアのクトゥ、チラウンを頭とする子どもらを追跡しに出征させた。(スペエテイは)チュイ河畔に追いつき、(彼らを)根絶やしにして来た。[237節]ジェベはナイマン(族長)のグチュルク・カンを追跡し、……」と記され、メルキト部残党をチュー河畔で撃滅したとする記述は『集史』・『聖武親征録』といった他の史書と完全に一致する上、スブタイとジェベの派遣がほぼ同時期に行われたという点も他の史書と合致する。そのため、『モンゴル秘史』の編者は「スブタイのメルキト部残党討伐」を誤って巻8・199節と巻10・236節に分けて、前者の記述を詳しくしたが、実際には後者の記述位置・内容こそが正しいと考えられている[8]。
- ^ 『集史』「チンギス・カン紀」には「また、コンギラト部のトガチャル・バハードゥルについては、(チンギスは)ヒタイに出征したとき、彼に二千のカラウル(哨戒兵)を率いさせ、諸アウルク(輜重、兵站)と諸オルドを監守するためにはるか後方に置き、しばらくそこにとどめていたのであったが、(このたびは)軍に臨んでスベェテイ・バハードゥルに合流するよう命じられた」と記されている[9]。なお、『聖武親征録』には「丁丑。上遣大将速不台抜都以鉄裹車輪、征蔑児乞部、与先遣征西前鋒脱忽察児二千騎合、至嶄河、遇其長、大戦、尽滅蔑児乞還」と記され、1217年(丁丑)にメルキト部討伐に派遣されたスブタイ・バートル(速不台抜都)が「先に派遣された征西前鋒のトクチャル(脱忽察児)の2千騎」と合流したという記述は『集史』のそれと完全に一致する[10]。
- ^ ボロクルの出征と戦死について、『聖武親征録』は「丁丑(1217年)……この歳、吐麻(トゥマト)部主の帯都剌莎児合に帰附していたにもかかわらず、叛した。上(チンギス・カン)は博羅渾那顔(ボロクル・ノヤン)と都魯伯(ドルベイ)の二将にこれを討ち平らげるよう命じたが、博羅渾那顔(ボロクル・ノヤン)は彼の地にて亡くなった(丁丑……是歳、吐麻部主帯都剌莎児合既附而叛。上命博羅渾那顔・都魯伯二将討平之、博羅渾那顔卒於彼)」と簡潔に記し、『集史』「チンギス・カン紀」や「キルギス」「ウラスト」「メルキト」各部族誌も同様の内容をより詳しく語る。一方、『モンゴル秘史』は巻10・239節でジョチによる西北諸部族の平定が記された後、同240節でボロクル・ノヤンの出征と死が描かれており、時系列が逆となっている[11]。
- ^ 『聖武親征録』はジェベのカラキタイ討伐の同年のこととして、「戊寅(1218年)。……これより先、吐麻(トゥマト)部は叛し、上(チンギス・カン)は乞児乞思(キルギス)部に征兵を派遣したが、キルギス部もまた従わずして叛した。遂に大太子(=ジョチ)に命じてこれの討伐に往かせ、不花(ブカ)を前鋒とし、乞児乞思(キルギス)を追って、亦馬児河に至って帰った。大太子は兵を領して謙河水を渡り、河の流れに従って諸部族を招降させ、烏思・憾哈納思・帖良兀・克失的迷・火因亦児干(ホイン・イルゲン)諸部を克した(戊寅。……先、吐麻部叛、上遣征兵乞児乞思部。不従、亦叛去。遂命大太子往討之、以不花為前鋒、追乞児乞思、至亦馬児河而還。大太子領兵渉謙河水、順下、招降之、因克烏思・憾哈納思・帖良兀・克失的迷・火因亦児干諸部)」と記し、同様の内容が『集史』「キルギス」「ウラスト」「メルキト」各部族誌にも記される[12]。
- ^ 『集史』「メルキト部族誌」には「最後の戦いにおいて、トクトアの末子で矢を極めて善く正確に射るクルトゥカン・メルゲンは、キプチャクの方へ逃げ去ったが、ジョチ・ハンはその追尾に軍を引き連れて彼を捕らえた」と記される[13]。
- ^ 『聖武親征録』は戊寅(1218年)にジェベのクチュルク討伐とジョチのホイン・イルゲン平定を記した後、続けて「己卯(1219年)、上(チンギス・カンは)兵を統べて西域を征した(己卯、上総兵征西域)」と記す[11]。
出典
- ^ a b 杉山2010,35頁
- ^ 佐口1968,181-182頁
- ^ 佐口1968,183頁
- ^ 杉山2010,28頁
- ^ 杉山2010,29-30頁
- ^ a b 杉山2010,34-35頁
- ^ 杉山2010,40-41頁
- ^ 杉山2010,42-43頁
- ^ 杉山2010,39頁
- ^ 杉山2010,41-42頁
- ^ a b 杉山2010,44頁
- ^ 杉山2010,44-45頁
- ^ 杉山2010,45頁
- ^ a b 杉山2010,46頁
- ^ a b 杉山2010,36-37頁
- ^ 杉山2010,35-36頁
- ^ 杉山2010,36頁
- ^ a b 訳文は杉山2010,34頁より引用
- ^ 杉山2010,39-40頁
- ^ 『元史』巻121列伝8速不台伝,「己卯、大軍至蟾河、与滅里吉遇、一戦而獲其二将、尽降其衆。其部主霍都奔欽察、速不台追之、与欽察戦于玉峪、敗之」
- ^ 杉山2010,31-32頁
- ^ 杉山2010,32-33頁
- ^ 佐口1968,177-178頁
- ^ 杉山2010,57-58頁
- ^ 杉山2010,56-57頁
- ^ 杉山2010,38頁
- ^ 杉山2010,59-60頁
- ^ 杉山2010,71-73頁
- ^ 杉山2010,73-75頁
- 1 カラ・クムの戦いとは
- 2 カラ・クムの戦いの概要
- 3 背景
- 4 戦闘
- 5 影響
- 6 脚注
カラ・クムの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 16:08 UTC 版)
「モンゴルのホラズム・シャー朝征服」の記事における「カラ・クムの戦い」の解説
詳細は「カラ・クムの戦い」を参照 それぞれメルキト部残党を追ってシル河北方の草原地帯に至ったジョチ率いるモンゴル軍とアラーウッディーン率いるホラズム軍は、1219年初頭に「カンクリ族の住まう地」カラ・クムにて激突した。両軍はともに遊牧国家伝統の右翼・中央・左翼からなる3軍体制を取って戦闘に臨んだが、両軍ともに決めてを欠いたまま日没を迎え、遂に明確な勝敗が決まらないまま両軍は撤兵した。ジュヴァイニーの『世界征服者の歴史』は、戦後に戦闘の経過を聞いたチンギスが「ホラズム軍の勇敢さを品定めし、スルターン軍の程度と規模がはたしてどれほどのものなのか、かくてわれらにはどのような取り除けない壁も、抗しえない敵ももはやないとわかって、諸軍をととのえ、スルターンに向かって進軍した」と記しており、この一戦でホラズム軍の力量を見切った事でチンギス・カンはホラズム侵攻を最終的に決断することになった。 一方、ホラズムの側では国王自ら精鋭軍を率いて臨んだにもかかわらず、一分遣隊に過ぎないモンゴル軍に押され、息子の救援がなければ自らの身すら危うかったスルターン=アラーウッディーンは自信喪失してしまった。モンゴルのホラズム侵攻において、アラーウッディーンは一度も自ら軍を率いて出征することなくオアシス都市に籠城しての防戦を徹底させたが、この戦略方針には「カラ・クムの戦い」における手痛い失敗が多大な影響を与えたと指摘されている。なお、古くはロシア人史家V.V.バルトリドの学説に基づいて「カラ・クムの戦い」の戦いが起こったのは1216年のことで、モンゴルのホラズム侵攻とは直接関係ない戦いであったとする説が有力であったが、バルトリドの議論は史料の誤読に基づくものであって現在では成り立たないと指摘されている。 モンゴル帝国で開催されたクリルタイでホラズム・シャー朝との開戦が正式に決定されると、軍隊の編成が協議された。チンギスは末弟のテムゲ・オッチギンをモンゴル高原に残し、1218年末にホラズム・シャー朝への行軍を開始した。1219年夏にチンギスはイルティシュ河畔で馬に休息を取らせ、同年秋に天山ウイグル王国、アルマリクのスクナーク・テギン、カルルク族のアルスラーン・カンの軍隊を加えて進軍した。開戦前にモンゴル帝国は西夏にも援軍の派遣を求めていたが、西夏から援軍は送られなかった。経済的な危機に直面するムスリム商人はモンゴル帝国の征西に積極的に協力し、ホラズム・シャー朝の国情や地理に関する詳細な情報を提供するだけでなく、遠征の計画の立案にも関与していたと考えられている。
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