カラ・キタイ征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 08:02 UTC 版)
耶律直魯古はもっぱら狩猟と快楽に耽り、政治を衰退させたため、カラ・キタイ属国(ウイグル、ホラズム、西カラハン朝)の離反を招き、すでに一定の地位を築いていたグチュルクに王位簒奪の機会を与えた。グチュルクはまず、耶律直魯古にイミル、カヤリク、ビシュバリクの地方に流浪しているナイマンの残党を糾合し、耶律直魯古のお供をさせたいと願い出て、耶律直魯古から「グチュルク・カン(強大なる君主)」の称号を与えられた。さっそくグチュルクはナイマンの残党を集め、メルキトの首長もこれに加えると、ホラズムとペルシアのスルターンであるアラーウッディーン・ムハンマド(在位:1200年 - 1220年)に協力を仰ぎ、カラ・キタイ攻撃の準備を整えた。 ホラズム軍はカラ・キタイに侵入し、カラ・キタイの将軍ターヤンクーを破った。1211年/1212年、グチュルクは混乱に乗じて耶律直魯古一行を急襲し、その身柄を確保した。こうしてグチュルクはカラ・キタイの王位を獲得したが、耶律直魯古が逝去した1213年まで、「皇帝」の称号を名乗らなかった。
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