キョセ・ダグの戦い
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キョセ・ダグの戦い(キョセ・ダグのたたかい)は、1243年、ルーム・セルジューク朝とモンゴル帝国との間で行われた戦闘。アナトリア北部エルズィンジャン・ギュミュシュハーネ間のキョセ・ダー(キョセ・ダグ Köse Dağ)で行われ[1][2]、モンゴル軍の圧勝で幕を閉じた。なお本項目の名称の地名について、イブン・ビービー等のルーム・セルジューク朝の一次史料の表記に基づいて「キョセ・ダグ( كوسه داغ Kūsa Dāgh/Köse Daγ)」と表記する。
- 1 キョセ・ダグの戦いとは
- 2 キョセ・ダグの戦いの概要
キョセ・ダグの戦い
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「ルーム・セルジューク朝」の記事における「キョセ・ダグの戦い」の解説
カイホスロー2世は即位後、宮廷内のホラズム人の有力者カユル・ハーンを殺害したため、ホラズム地方出身の廷臣は臣従を拒んで反乱を起こした。 1240年から1241年にかけて、ユーフラテス川流域でバーバー・イスハークというダルヴィーシュ(スーフィーの修道僧)がトゥルクマーンを指揮して宗教反乱を起こした。反乱は宗教面以外に反貴族政治的な性質も持ち、ルーム・セルジューク軍は反乱軍に何度も敗れ、一時はカイホスローが首都コンヤから脱出する危機に陥った。反乱はフランク人傭兵によって鎮圧され、指導者のバーバー・イスハークは絞首刑に処せられたが、この事件はルーム・セルジューク朝の軍事力の低下を明らかに示していた。 1241年にカイホスローはアルトゥク朝が有するアーミド(現在のディヤルバクル)を占領し、東方に影響力を拡大する。しかし、アーミドの占領直後にルーム・セルジューク朝は東方で勃興したモンゴル帝国からの攻撃に晒される。1232年頃からモンゴル軍はアナトリアで偵察を行っており、その時には大規模な戦闘は発生しなかったが、1240年代より本格的な攻撃が始まり、1242年の秋にエルゼルムがモンゴルによって陥落させられる。カイホスローはエルズィンジャンに侵入したモンゴル軍を迎撃するために親征を行うが、1243年6月26日にルーム・セルジューク軍はキョセ・ダグでバイジュ・ノヤン率いるモンゴル軍に大敗した(キョセ・ダグの戦い)。敗戦後、抵抗することなくモンゴルに降伏したスィヴァスは殺戮を免れたものの城壁と兵器を破壊され、トカト、カイセリは略奪を受けた。モンゴル軍によるアナトリア遠征は(おそらくは略奪を目的として)バイジュの独断で行われたものであり、戦後すぐにモンゴル軍がアナトリアに駐屯することは無かったが、モンゴルに臣従を誓ったルーム・セルジュークには毎年のモンゴルへの貢納が課せられた。臣従から間もなくアナトリアは飢饉に襲われ、危険を避けて黒海沿岸部や地中海沿岸部に逃れる者が多く現れる。1245年にカイホスローはモンゴル軍に協力した小アルメニア王国に懲罰の親征を行う途上で没し、跡をカイホスローの長子のカイカーウス2世が継いだ。このカイホスローの死についても、毒殺を疑う研究者がいる。
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