第3代モンゴル帝国皇帝グユクの時代
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「モンゴル帝国」の記事における「第3代モンゴル帝国皇帝グユクの時代」の解説
1241年にオゴデイが急死し、翌年にはチャガタイが病死すると、チンギス・カンの実子がいなくなった帝国には権力の空白が訪れた。次期モンゴル皇帝(カアン)の選出作業にはオゴデイの皇后ドレゲネが監国となってあたったが、生前オゴデイが指名した後継者シレムンを無視して自身の子であるグユクを擁立しようとしたため、皇帝(カアン)の選出が遅れた(シレムンは、1236年に南宋遠征中に陣没しオゴデイが生前後継者と指名していた三男クチュの長男)。 1246年、ようやく開催されたクリルタイはグユクを皇帝に指名したが、グユクと仲の悪いバトゥは兄弟たちを出席させたものの自身は病気療養を口実にクリルタイをボイコットした。皇帝のグユクと西方の有力者バトゥの対立により帝国は一時分裂の危機に陥るが、グユクは即位わずか2年後の1248年に崩御した。 しかし、この間の1243年にはアナトリア半島でキョセ・ダグの戦いがあり、チョルマグンから鎮戍軍の指揮権を継いだバイジュ・ノヤン率いるモンゴル軍がルーム・セルジューク朝軍を打ち破り、ルーム・セルジューク朝、アルメニア王国、グルジア王国などがモンゴル帝国に帰順した。イラン鎮戍軍と同時に進駐して来たイラン総督府と1250年代のフレグの西方遠征までは20年余りの時間差があるが、この時期にチンギス・カンの遠征時には東部でモンゴル軍による掠奪と殺戮のみで通過しただけであったイラン高原は、鎮戍軍の軍事的支配と総督府の財政的な掌握によって徐々にモンゴル帝国の支配地域として組み込まれて行った。
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