イラン総督
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1233年にオゴデイより正式にイラン総督の地位を認められたチン・テムルはクルクズとホラーサーン官僚のバハーウッディーン・ムハンマド・ジュヴァイニー(『世界征服者史』の著者アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーの父)をクリルタイの開催にあわせてオゴデイの下に派遣し、オゴデイの下に到着したクルクズはその雄弁さによってオゴデイを喜ばせ、恩賜(ソユルガル)を得た。さらにオゴデイ直属の書記官僚チンカイの知遇を得たバハーウッディーンはパイザ、勅令(ジャルリグ)とともにサーヒブ・ディーワーン職も授けられた。 クルクズがイランに帰還するとチン・テムルは既に亡くなっており、イラン総督の地位は将軍のノサルが継いだが、既にかなりの高齢であったノサルに事務処理能力はなく実権はクルクズに移っていった。ノサルが総督に就任した頃、マリク・バハーウッディーンが訴訟のためにカラコルムのオゴデイの下を訪れていたが、イランに戻るにあたってクルクズのカラコルム召還命令を携えてきた。ノサルとクル・ボラトはクルクズの召還を喜ばなかったものの最終的には同意し、クルクズはマリク・バハーウッディーンらホラーサーンの有力者たちとともにカラコルムのオゴデイの下を訪れた。 カラコルムでは財務官僚のダーニシュマンド・ハージブがクルクズを罷免してチン・テムルの子のエドグ・テムルをその後継者とせんと画策していたが、一方でクルクズに好意的なチンカイが「ホラーサーンの有力者たちはクルクズを望んでいる」とオゴデイに助言していた。そこでオゴデイは再びクルクズをイランに派遣して人口調査を行わせ、その仕事ぶりを見極めるた上で処遇を決める、と命令した。この勅令を受けたクルクズは急ぎイランに帰国するとオゴデイの仮の任命書をたてにノサル、クル・ボラトから実権を奪ってイラン経営に取り組んだ。この頃のクルクズの業績は 『世界征服者史』に「民の間に正義と公正を広げた……諸都市復興の希望が顕わとなった」と記されている。 一方、チン・テムルの死亡とクルクズの抜擢で不遇を囲っていた者たちがエドグ・テムルの下に集まり、オゴデイの下にトングズを派遣してクルクズを告発させた。また、チンカイの敵対派閥もこの動きに協力したため、改めてアルグン・アカ、クルバカ、シャムス・ウッディーンの3名がホラーサーンの実態調査のために派遣されることになった。この反対運動を知ったクルクズはバハーウッディーンを自らの代理として残して急ぎカラコルムを目指したが、道中でアルグンらと合流したクルクズはテムルチという使者をカラコルムに派遣して自らはイランに帰還した。この間、エドグ・テムル一派が官舎からクルクズ派の官僚を追い出し、さらにクルクズ派がそれを再奪還するなど混乱が続いたが、最終的にはカラコルム から戻ったテムルチが「関係者はカラコルムに出頭して裁定を受けよ」というオゴデイからの勅令をもたらした。カラコルムで行われた裁判でも容易に決着はつかなかったが、最終的にはオゴデイの命令によってクルクズの勝訴となり、クルクズは改めて総督任命の勅令を得た。 カラコルムでの裁判を終えたクルクズはバトゥの弟のタングートと面会してホラズム経由でイランに1239年の11月-12月頃に帰還し、バハーウッディーンらの歓迎を受けた。同時期にノサルは病死し、クル・ボラトも暗殺されたためもはやクルクズを遮る者はなく、クルクズはイラン総督府の拠点をトゥースに移してイラン経営を再開した。また、この時オゴデイよりクルクズに与えられた勅令には「アム河(以西)、チョルマグンの軍が征服した全土を授ける」とあり、従来のホラーサーン、マーザンダラーン州に加えてイラン西部からアナトリア半島東部に至る広大な地域がイラン総督府の管轄下に入った。そこでクルクズは自らの息子たちをイラク、アッラーン、アゼルバイジャンに派遣して現地の統治を委ねている。
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