行尚書省とビチクチ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/04 00:19 UTC 版)
チンギス・カン時代のモンゴル帝国には征服地の統治に携わる余地がなく、征服地にはダルガチを置いて間接支配下とするに留まっていた。第2代皇帝オゴデイの時代より征服地の統治機構の整備が本格的に始まり、ここで活躍したのがビチクチたちであった。東方ではカーンに直属する耶律楚材らのビチクチが旧金朝領の統治機構を整備し、この統治機構は現地において「中書省」とも呼ばれた。一方、西方ではチン・テムルを中心としてイラン統治機関(モンゴル史研究者は便宜的に「イラン総督府」と呼称する)が設置されたが、イラン総督府の実務を担当したのは諸王家から派遣されてきたビチクチであった。1251年に即位した第四代皇帝モンケの治世においてモンゴル帝国の統治組織の整備はより一層進められ、モンケはジョチ・ウルスを除く帝国領を3つ(東アジア・中央アジア・西アジア)に分類し、それぞれに燕京等処行尚書省・ビシュバリク等処行尚書省事・アム河等処行尚書省の3つの行尚書省を設置した。これらの尚書省はオゴデイ時代から整備が進められていた征服地の統治機構を発展させたもので、引き続きビチクチが重用されていた。
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