イラン総督府長官として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 08:48 UTC 版)
「チン・テムル」の記事における「イラン総督府長官として」の解説
クル・ボラトによって勅令がもたらされると、チン・テムルはイラン総督府の整備を始めた。ホラズム官僚の代表者シャラフッディーン・ホラズミーを大ビチクチに、ホラーサーン官僚の代表者バハーウッディーンを財務庁の長官(サーヒブ・ディーワーン)に任じ、この2名が中心となってイラン統治は進められた。 チン・テムルによる統治機構の整備によって初めてイラン一帯においてモンゴル勢力による徴税が始まり、イランにおけるモンゴル人の立場は変化を始めた。ジュヴァイニーはチン・テムルの統治を評して「モンゴル人には当初黄金・宝石に対する関心はなかった。チン・テムルが権力を得るや、この貴人はその才能を顕現させて、彼等の心中に金銭を甘美なものとした」と述べている。 チン・テムルはオゴデイの第2回クリルタイにあわせてウイグル人書記のクルクズをカラコルムに派遣し、クルクズはその雄弁さによってオゴデイから認められた。しかし、これらの使節団がホラーサーンに帰還する前にチン・テムルは病死した。 チン・テムルの死後、オゴデイの命によってジョチ家から出向していたノサルが第2代総督に任ぜられたが、ノサルは当時かなりの高齢であったため、実験はやがてクルクズに移り彼が第3代総督となった。
※この「イラン総督府長官として」の解説は、「チン・テムル」の解説の一部です。
「イラン総督府長官として」を含む「チン・テムル」の記事については、「チン・テムル」の概要を参照ください。
- イラン総督府長官としてのページへのリンク