イラン総督府設置に至るまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 00:28 UTC 版)
「阿母河等処行尚書省」の記事における「イラン総督府設置に至るまで」の解説
1219年から1222年にかけてホラズムに侵攻したモンゴル軍は中央アジア及び西北イラン一帯を征服し、各地域にダルガチを置いて間接統治下に置いた。モンゴルの占領地の中でもイラン西北一帯(ホラーサーン州)はとりわけ被害が大きく治安も悪化していたため、モンゴルの統治もゆきとどなかった。そのためホラズムの残党が跳梁する余地を生み、オゴデイとトルイらの協議によってチョルマグン率いるタンマチ(辺境鎮戍軍)の派遣が決定され、このタンマチ軍の後方支援を行うよう命じられたのがチン・テムルであった。 チン・テムルは命を受けると1230年頃にホラズム州からホラーサーン州に入り、これに多数のホラズム人行政官が同行した。また、チン・テムルの下にはチンギス・カンの諸子がそれぞれ自らの代理人としてクル・ボラト、ノサル、ヒジル・ブカ、イェケらを派遣しており、彼らの帯同するビチクチ(書記官)がイラン統治の実務を担い、これらの人員がイラン総督府の原型を作り上げた。
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