初代総督チン・テムルの時期とは? わかりやすく解説

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初代総督チン・テムルの時期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 00:28 UTC 版)

阿母河等処行尚書省」の記事における「初代総督チン・テムルの時期」の解説

ホラーサーン到着しイラン統治始めたチン・テムルであったが、当時イラン治安はかなり悪化しており、チョルマグン設置したダルガチジャラールッディーン・メングベルディー配下武将カラチャとヤガン・ソンコルが殺害するという事件が生じていた。これを聞いたオゴデイインド方面派遣していたタンマチ長官のダイル・バートルにイラン方面移動するよう命じた。しかし、チン・テムルダイル到着以前独力でカラチャらを討伐し、また部下のクル・ボラトをオゴデイの下に派遣してホラーサーン州実情と自らの立場主張させることとした。この時、チン・テムルホラーサーン、マーザンダラン一帯有力者同行させたため、クル・ボラトを迎えたオゴデイ大い喜んでチョルマグン出征以来多く国々を打従えたが,、未だ一人国王我等のもとに送ってこない。チン・テムルはその領域狭く資源も少いのに、このような忠勤励んだ。彼を称讃する。ホラーサーンマーザンダラーン長官職を彼の名前で確認するチョルマグン及び他の長官たちは干渉の手を引くように」と述べたという。 ここにおいて初めカラコルム中央政府承認の下モンゴルイラン統治期間(=イラン総督府)が成立したといえる。 クル・ボラトによってイラン総督任命勅令もたらされると、チン・テムルイラン総督府の整備本格的に開始しホラズム官僚代表者シャラフッディーン・ホラズミーを大ビチクチに、ホラーサーン官僚代表者バハーウッディーンを財務庁長官(サーヒブ・ディーワーン)に任じ、この2名が中心となってイラン統治進められた。 チン・テムルによる統治機構整備によって初めイラン一帯においてモンゴル勢力による徴税始まりイランにおけるモンゴル人立場変化始めたジュヴァイニーチン・テムル統治評してモンゴル人には当初黄金・宝石に対す関心はなかった。チン・テムル権力を得るや、この貴人はその才能顕現させて、彼等心中金銭甘美なものとした」と述べている。チン・テムルオゴデイ第2回クリルタイあわせてウイグル人書記クルクズカラコルム派遣しクルクズはその雄弁さによってオゴデイから認められた。しかし、これらの使節団ホラーサーン帰還する前にチン・テムル病死してしまい、その後オゴデイの命によってジョチ家から出向していたノサルが第2代総督に任ぜられた。

※この「初代総督チン・テムルの時期」の解説は、「阿母河等処行尚書省」の解説の一部です。
「初代総督チン・テムルの時期」を含む「阿母河等処行尚書省」の記事については、「阿母河等処行尚書省」の概要を参照ください。

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