初代総督チン・テムルの時期
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「阿母河等処行尚書省」の記事における「初代総督チン・テムルの時期」の解説
ホラーサーンに到着しイランの統治を始めたチン・テムルらであったが、当時のイランの治安はかなり悪化しており、チョルマグンが設置したダルガチをジャラールッディーン・メングベルディーの配下の武将カラチャとヤガン・ソンコルが殺害するという事件が生じていた。これを聞いたオゴデイはインド方面に派遣していたタンマチの長官のダイル・バートルにイラン方面に移動するよう命じた。しかし、チン・テムルはダイルの到着以前に独力でカラチャらを討伐し、また部下のクル・ボラトをオゴデイの下に派遣してホラーサーン州の実情と自らの立場を主張させることとした。この時、チン・テムルはホラーサーン、マーザンダラン一帯の有力者も同行させたため、クル・ボラトを迎えたオゴデイは大いに喜んで「チョルマグンは出征以来、多くの国々を打従えたが,、未だ一人の国王も我等のもとに送ってこない。チン・テムルはその領域も狭く、資源も少いのに、このような忠勤を励んだ。彼を称讃する。ホラーサーンとマーザンダラーンの長官職を彼の名前で確認する。チョルマグン及び他の長官たちは干渉の手を引くように」と述べたという。 ここにおいて、初めてカラコルム中央政府の承認の下モンゴルのイラン統治期間(=イラン総督府)が成立したといえる。 クル・ボラトによってイラン総督任命の勅令がもたらされると、チン・テムルはイラン総督府の整備を本格的に開始し、ホラズム官僚の代表者シャラフッディーン・ホラズミーを大ビチクチに、ホラーサーン官僚の代表者バハーウッディーンを財務庁の長官(サーヒブ・ディーワーン)に任じ、この2名が中心となってイラン統治は進められた。 チン・テムルによる統治機構の整備によって初めてイラン一帯においてモンゴル勢力による徴税が始まり、イランにおけるモンゴル人の立場は変化を始めた。ジュヴァイニーはチン・テムルの統治を評して「モンゴル人には当初黄金・宝石に対する関心はなかった。チン・テムルが権力を得るや、この貴人はその才能を顕現させて、彼等の心中に金銭を甘美なものとした」と述べている。チン・テムルはオゴデイの第2回クリルタイにあわせてウイグル人書記のクルクズをカラコルムに派遣し、クルクズはその雄弁さによってオゴデイから認められた。しかし、これらの使節団がホラーサーンに帰還する前にチン・テムルは病死してしまい、その後オゴデイの命によってジョチ家から出向していたノサルが第2代総督に任ぜられた。
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