イラン(アゼルバイジャン)方面
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「タンマチ」の記事における「イラン(アゼルバイジャン)方面」の解説
前述したように、イラン方面タンマチの派遣は1228年にオゴデイとトゥルイの協議によって決定された。イラン方面軍の当初の主たる目的はジャラールッディーン率いるホラズム残党の討伐にあり、チョルマグン率いるタンマチはイランを横断してホラズム残党の拠るアゼルバイジャンを目指した。アゼルバイジャンにてホラズム残党を打倒したタンマチは以後アゼルバイジャン一帯を根拠地としたため、モンゴル史研究者の志茂碩敏はこれを「アゼルバイジャン鎮守府」と呼称する。 ホラズム残党の壊滅後、イラン方面タンマチは周辺諸勢力への侵攻を開始し、グルジアの平定後、キョセ・ダグの戦いを経てアナトリア半島のルーム・セルジューク朝も服属させた。一方、1230年頃にはホラーサーンにモンゴルのイラン統治期間たる「イラン総督府(後のアム河行省)」が発足したが、初代イラン総督チン・テムルはイラン方面・インド方面タンマチを無視して独力でホラーサーン・マーザンダラーン両州の経営を行ったため、イラン方面軍長官チョルマグンとインド方面軍長官ダイルは自らの権益を侵すものとしてチン・テムルに抗議を行った。しかし、チン・テムルがイラン総督府の活動によってモンゴルに投降したイラン人有力者をカラコルムに送ったところ、これを喜んだオゴデイは正式にイラン総督府の存在を認めてチョルマグンらの抗議を退け、これ以後イラン方面タンマチとイラン総督府はフレグの征西まで並存することとなる。 前述したように、第4代皇帝モンケは1253年にフレグを総司令とする遠征軍を派遣することを決定し、それにあわせてイラン・インド方面のタンマチはフレグの指揮下に入るようにとの命令を出した。この頃にはチョルマグンは既に亡くなっており、第2代隊長のバイジュ率いるタンマチはアラムートでフレグ軍本体と合流し、バグダードの戦いにも尽力した。しかし、バイジュは「俺こそがルームを服従させたのだ」と語るなど驕慢な振る舞いが多く、1259年頃にフレグの命によって処刑されてしまった。また、同時期に第4万人隊長のヒンドゥジャクも命令違反をした廉でイラン総督府のアルグン・アカによってトゥースの城門で処刑されている。 1260年、モンケの急死とクビライの即位を知ったフレグはイラン一帯にて自立することを決意し、アゼルバイジャン地方を中心とするフレグ・ウルスを設立した。周囲との協議なしに一方的に自立したフレグ・ウルスとジョチ家は遊牧地として良好なアゼルバイジャン地方の領有権を巡って対立し、アゼルバイジャンに駐屯するタンマチはこれ以後フレグ・ウルスの一部としてジョチ家との戦いに駆り出されるようになる。しかし、先に処刑されたヒンドゥジャクの弟で「第4万人隊」の隊長サラル・ベクは本体とは行動を別にしてマムルーク朝との国境付近に残っており、アイン・ジャールートの敗戦に関わることになってしまった。サラル・ベクは生きてフレグのもとに戻ることができたもののフレグの怒りを買って処刑され、「第4万人隊」は完全に解体・分配されてしまった。このように、フレグ・ウルスの傘下に入ったタンマチは従来の4万人体という型式を保つことができなくなり、「4千人隊」「千人隊」といった単位で分割されていくこととなる。 バイジュの跡を継いで第3代隊長となったシレムンは1260年代のジョチ家とフレグの戦い(テレク河の戦い)に従軍し、当初は敵軍を撃退することに成功したものの、最終的には敵の奇襲を受けて他の武将とともに大敗を喫してしまった。しかしその後もシレムンの地位は変わらず、グルジアへの遠征や、チャガタイ・ウルスへの亡命者への捕獲などを行ったことが記録されている。シレムンの死後はバイジュの息子アダクが跡を継いでフレグの息子アバカに仕えたが、アダクの事蹟についてはほとんど知られていない。 しかし、1282年のアバカの死去からガザンの即位に至る一連の内乱によってイラン方面タンマチは徐々に解体・分割されていった。まず、アバカ死後の内紛でテグデルに与したシレムンの息子エブゲンは内乱に勝利した第4代君主のアルグンによって処刑されてしまった。エブゲンの率いるイラン方面タンマチの「第一万人隊」は「4千人隊」2つに分割されてジャライル部のガザンとブラルギに分配されたが、ジャライル部のガザンもまた1289年のブカの反乱に与して処刑されてしまった。更に、1291年にはブラルギもまたアルグンの暗殺を謀った容疑でインド方面タンマチ出身のタガチャルらに殺害されたが、一方でバイドゥとゲイハトの争いでゲイハトに味方した功績でジャライル部のガザンの弟アイナ・ベクは兄の率いていた軍隊を継承することを許された。 以上のようなタンマチ指揮官排除の傾向に危機感を覚えたためか、ガザンの治世最初期に勃発したスケ・アルスランの叛乱には「第一万人隊」のアイナ・ベク、「第3万人隊」のバルラ、フレグ時代より活躍する最古参のタンマチ指揮官トカルらが荷担し、叛乱鎮圧後には此等3名全員が殺され、イラン方面タンマチは壊滅状態に陥った。また、同時期にはシレムンの息子バイグトもが反乱をおこしたかどで処刑され、更にアダクの息子スラミシュが1299年に反乱を起こして処刑されたのを最後に、フレグ・ウルスではイラン方面タンマチ出身の将軍は見られなくなり、イラン方面タンマチはガザンの時代に解体されてしまった。ガザンのタンマチに対するこのような態度は、長く続く内乱で解体の危機にあったフレグ・ウルス建て直し政策の一環で、同時期に進行していた税制(イクター制)改革・『集史』の編纂などと連動したものであったと考えられている。これらの政策は一定の成果を挙げ、ガザンとラシード・ウッディーンはフレグ・ウルスの再編に成功するが、これ以後イラン方面タンマチ由来の軍隊・指揮官がフレグ・ウルスで活躍することはなくなってしまった。
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イラン方面
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イラン方面タンマチの編成については『集史』「スニト部族志」に詳細な部隊内容が記録されており、それによるとイラン方面タンマチは4つの万人隊から成り立っていたこと、その内の一つはウイグル・カルルクなど現地徴発兵によって構成されるものであったことが確認される。なお、『世界征服者史』などでは「3つの万人隊」であったと記されることもあるが、これは モンゴル高原出発時には3万人隊であったが、遠征中で残現地民を徴発して1万人隊を増設したためであると考えられている。 地位名前ペルシア語表記漢字表記出身部族備考第1万人隊長 チョルマグン چورماغون(chūrmāghūn) 綽児馬罕(chuòérmǎhǎn) スニト部 晩年は病気によってバイジュに指揮権を委ねていた 第2万人隊長 バイジュ بايجو نويان(Bāyjū Nūyān) コンギラト部 シリア侵攻中にフレグによって処刑される 第3万人隊長 イェケ・イェスル بوكا تیمور(yīsūr buzurg) オルクヌウト部 千人隊長キンギヤダイの息子 第4万人隊長 マリク・シャー ملکشاه(Malik Shāh)
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