イラン方面とは? わかりやすく解説

イラン(アゼルバイジャン)方面

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:25 UTC 版)

タンマチ」の記事における「イランアゼルバイジャン方面」の解説

前述したように、イラン方面タンマチ派遣1228年オゴデイトゥルイ協議によって決定された。イラン方面軍の当初主たる目的ジャラールッディーン率いホラズム残党討伐にあり、チョルマグン率いタンマチイラン横断してホラズム残党拠るアゼルバイジャン目指した。アゼルバイジャンにてホラズム残党打倒しタンマチ以後アゼルバイジャン一帯根拠地したためモンゴル研究者志茂碩敏はこれを「アゼルバイジャン鎮守府」と呼称する。 ホラズム残党壊滅後、イラン方面タンマチ周辺諸勢力への侵攻開始しグルジア平定後、キョセ・ダグの戦い経てアナトリア半島ルーム・セルジューク朝服属させた。一方1230年頃にはホラーサーンモンゴルイラン統治期間たる「イラン総督府(後のアム行省)」が発足したが、初代イラン総督チン・テムルはイラン方面・インド方面タンマチ無視して独力でホラーサーン・マーザンダラーン両州の経営行ったため、イラン方面軍長チョルマグンインド方面軍長ダイルは自らの権益侵すものとしてチン・テムル抗議行った。しかし、チン・テムルイラン総督府の活動によってモンゴル投降したイラン人有力者カラコルム送ったところ、これを喜んだオゴデイ正式にイラン総督府の存在認めてチョルマグンらの抗議退け、これ以後イラン方面タンマチイラン総督府はフレグ征西まで並存することとなる。 前述したように、第4代皇帝モンケ1253年フレグ総司令とする遠征軍派遣することを決定し、それにあわせてイラン・インド方面タンマチフレグ指揮下に入るようにとの命令出したこの頃にはチョルマグンは既に亡くなっており、第2代隊長バイジュ率いタンマチアラムートフレグ本体合流しバグダードの戦いにも尽力した。しかし、バイジュは「俺こそがルーム服従させたのだ」と語るなど驕慢振る舞い多く1259年頃にフレグの命によって処刑されてしまった。また、同時期に第4万人隊長のヒンドゥジャクも命令違反をした廉でイラン総督府のアルグン・アカによってトゥース城門処刑されている。 1260年モンケ急死クビライ即位知ったフレグイラン一帯にて自立することを決意しアゼルバイジャン地方中心とするフレグ・ウルス設立した周囲との協議なしに一方的に自立したフレグ・ウルスジョチ家遊牧地として良好なアゼルバイジャン地方領有権巡って対立しアゼルバイジャン駐屯するタンマチはこれ以後フレグ・ウルス一部としてジョチ家との戦い駆り出されるうになる。しかし、先に処刑されたヒンドゥジャクの弟で「第4万人隊」の隊長サラル・ベクは本体とは行動別にしてマムルーク朝との国境付近に残っており、アイン・ジャールートの敗戦関わることになってしまった。サラル・ベクは生きてフレグのもとに戻ることができたもののフレグ怒り買って処刑され、「第4万人隊」は完全に解体分配されてしまった。このようにフレグ・ウルス傘下入ったタンマチ従来の4万人体という型式を保つことができなくなり、「4千人隊」「千人隊」といった単位分割されていくこととなる。 バイジュの跡を継いで第3隊長となったシレムン1260年代ジョチ家フレグ戦い(テレク河の戦い)に従軍し当初敵軍撃退することに成功したものの、最終的には敵の奇襲受けて他の武将とともに大敗喫してしまった。しかしその後シレムン地位変わらずグルジアへの遠征や、チャガタイ・ウルスへの亡命者への捕獲などを行ったことが記録されている。シレムン死後バイジュ息子アダクが跡を継いでフレグ息子アバカ仕えたが、アダク事蹟についてはほとんど知られていない。 しかし、1282年アバカ死去からガザン即位に至る一連の内乱によってイラン方面タンマチ徐々に解体分割されていった。まず、アバカ死後の内紛テグデル与したシレムン息子エブゲン内乱勝利した4代君主アルグンによって処刑されてしまった。エブゲン率いるイラン方面タンマチの「第一万人隊」は「4千人隊2つ分割されジャライル部ガザンとブラルギに分配されたが、ジャライル部ガザンもまた1289年ブカ反乱与して処刑されてしまった。更に、1291年にはブラルギもまたアルグン暗殺謀った容疑インド方面タンマチ出身タガチャルらに殺害されたが、一方でバイドゥとゲイハトの争いでゲイハトに味方した功績ジャライル部ガザンの弟アイナ・ベクは兄の率いていた軍隊継承することを許された。 以上のようなタンマチ指揮官排除傾向危機感覚えたためか、ガザン治世最初期勃発したスケ・アルスランの叛乱には「第一万人隊」のアイナ・ベク、「第3万人隊」のバルラフレグ時代より活躍する最古参タンマチ指揮官トカルらが荷担し、叛乱鎮圧後には此等3名全員殺され、イラン方面タンマチ壊滅状態陥ったまた、同時期にシレムン息子バイグトもが反乱おこしたかどで処刑され、更にアダク息子スラミシュが1299年反乱起こして処刑されたのを最後にフレグ・ウルスではイラン方面タンマチ出身将軍見られなくなり、イラン方面タンマチガザン時代解体されてしまった。ガザンタンマチ対すこのような態度は、長く続く内乱解体危機にあったフレグ・ウルス建て直し政策一環で、同時期に進行していた税制イクター制改革・『集史』の編纂など連動したものであった考えられている。これらの政策一定の成果挙げガザンラシード・ウッディーンフレグ・ウルス再編成功するが、これ以後イラン方面タンマチ由来軍隊指揮官フレグ・ウルス活躍することはなくなってしまった。

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イラン方面

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タンマチ」の記事における「イラン方面」の解説

イラン方面タンマチ編成については『集史』「スニト部族志」に詳細な部隊内容記録されており、それによるとイラン方面タンマチ4つ万人隊から成り立っていたこと、その内一つはウイグル・カルルクなど現地徴発兵によって構成されるものであったことが確認される。なお、『世界征服者史』などでは「3つの万人隊」であった記されることもあるが、これは モンゴル高原出発時には3万人であったが、遠征中で残現地民を徴発して1万人隊を増設したためであると考えられている。 地位名前ペルシア語表記漢字表記出身部族備考1万隊長 チョルマグン چورماغون(chūrmāghūn) 綽児馬罕(chuòérmǎhǎn) スニト晩年病気によってバイジュ指揮権委ねていた 第2万隊長 バイジュ بايجو نويان(Bāyjū Nūyān) コンギラトシリア侵攻中にフレグによって処刑される 第3万人隊長 イェケ・イェスル بوكا تیمور(yīsūr buzurg) オルクヌウト千人隊長キンギヤダイ息子 第4万人隊長 マリク・シャー ملک‌شاه(Malik Shāh)

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