被征服民の徴発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:25 UTC 版)
タンマチの最大の特徴として、モンゴル本土から徴発されたモンゴル兵と、遠征先の被征服民からの徴発兵の混成軍団であった点が挙げられる。現地徴発兵については断片的な記述しかないものの、西方においては先に挙げた『集史』「スニト部族志」に「[イラン方面タンマチの]もう一人の万人隊長はマリク・シャーであった。ウイグル・カルルク・トルコマン・カシュガル・クチャから軍が糾合されて彼に与えられた……」とあり、イラン方面タンマチ4万人隊の内に現地徴発された万人隊が一つあったことが確認される。また、東方ではオゴデイ即位直後の第二次金朝遠征に先立って、「10戸(一牌子)につき1名、20歳以上30歳以下の者を選抜し、選抜した兵員を千戸・百戸・十戸に定めた(……毎一牌子簽軍一名,限年二十以上、三十以下者充,仍定立千戸、百戸、牌子頭……)」ことが記録されている。また、この時徴発された兵員で構成されるヒタイ方面タンマチ(河南淮北蒙古軍)は後に「四万戸(4万人隊)」の名称で知られるが、その内半数の2万がモンゴル兵で、もう半分の2万が漢人兵で成り立っていた。 このように、征服地においても「既存の人の集まりに徴発率を割り当て、10人に一人という割合で兵員を徴発する」というモンゴル兵と同様の徴兵が行われていたことが確認される。タンマチの軍勢はこのような手法で徴発されたモンゴル兵・現地徴発兵の混成軍団であった。
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