第3代最高裁判所長官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/22 15:04 UTC 版)
「ウィリアム・クッシング」の記事における「第3代最高裁判所長官」の解説
ジョン・ジェイが1795年に最高裁判所を辞任したとき、ワシントンは最高裁判所長官を新たに指名する必要性に直面した。最初に選んだのはジョン・ラトリッジだったが、アメリカ合衆国上院がこれを拒否した。しかし、ラトリッジは議会休会中の任命として暫く長官職を務めた。 ワシントンはその後1796年1月26日にクッシングを長官に指名し、上院は全会一致でその指名を確認した。信憑性を確認できていない話では、上院が確認投票を行った日の夜の外交晩餐パーティで、ワシントンがクッシングの驚いたことにその右隣に座らせて、最高裁判所長官にクッシングを指名したことを伝えた。翌日、ワシントンはクッシングの任命書に署名して発送した。 クッシングは1月27日に任命書を受け取ったが、2月2日にそれをワシントンに返却した。2月3日と4日の最高裁判所の大まかな議事録では、クッシングを長官として記す誤りを犯していたが、これは後に削除された。この誤りは1789年の司法権法の本文で説明できる。この法では最高裁判所がわずか4人の判事を定足数として審理ができるとしていた。すなわち、長官は常にその職務を遂行するために法廷に居る必要は無かった。クッシングはその日付で最も年長の裁判官だったので、職務を宰領するものと期待されていた。 ワシントンは続いてオリバー・エルスワースを長官に指名して、3月3日に辞任したウィリアム・クッシングの替わりにエルスワースを据えるというメッセージを上院に送った。その最高裁判所の歴史ではクッシングを長官として数えていないが、その替わりにクッシングが指名を辞退したという記録がある。この説明は論理的であり、クッシングが長官職を受けた後に辞任したのであれば、裁判所そのものから去る必要があった。長官職を受けることは暗黙のうちに陪席判事としての職を辞めることが必要だった。クッシングが陪席判事としてその後も長く最高裁判所に留まったことは、クッシングが辞退したという主張に重きを置かせるものである。さらに、クッシングの2月2日付け文書は、明白に長官の任命書を返還することをうたっており、陪席判事として留まる希望を述べていた。
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