第3代東寺座主・第66代醍醐寺座主とは? わかりやすく解説

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第3代東寺座主・第66代醍醐寺座主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)

文観」の記事における「第3代東寺座主・第66代醍醐寺座主」の解説

後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)」も参照 文観弟子著した瑜伽伝灯鈔』(正平20年/貞治4年1365年))によれば延元4年/暦応2年1339年1月25日文観醍醐寺座主再任された。事実この頃著作文観はしばしば「醍醐寺座主大僧正」と自署している。 しかし、醍醐寺根本史料である『醍醐寺新要録』巻第14によればこの頃は第65代の賢俊依然として醍醐寺座主であり、文観再任されたとは見えないこのような記録齟齬発生したことについて、仏教美術研究者内田啓一は、官職南朝北朝それぞれ別に補任されたのと同様に僧職においても南朝北朝それぞれ独自に長が立てられたのではないか、と推測している。その論拠として、醍醐寺座主半ば公的な僧職であり、その補任には口宣案太政官牒など朝廷からの発給文書を必要とすることから、朝廷南朝北朝分かれた場合には、それぞれの宣下によって異な座主当てられるのも自然であろうという。 6月10日には播磨国兵庫県)の清水寺滞在しており、仏典書写行っている(『金澤文庫文書12巻)。この写本では、「醍醐寺座主殊音」と、律僧としての「殊音」の諱で署名しているのが例外的である。 その6日後の6月16日には大和国奈良県)の吉野帰還しており、後醍醐天皇真言宗至宝一つである『天長印信』の書写依頼した国宝後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)』である。これは本来は京都醍醐寺にあるはずの宝物であるため、南朝君主である後醍醐直に北朝領地である京都入手したとは考えにくい。内田啓一によれば文観南朝護持僧とはいえ僧侶である以上はある程度陣営自由に行き来することが可能であり、醍醐寺から一時的に借り受けて後醍醐天皇にもとに運び筆写要望したのではないか、という。 なお、『後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)奥書および『瑜伽伝灯鈔によれば文観6月26日に「東寺座主」という仏職に補任されている。これはかつて後醍醐天皇の父の後宇多上皇が、東寺長者よりも上位にある真言宗最高位として新設したもので、初代東寺長者は禅助、第2代当時長者は道意、そして第3代が今回文観となる。しかし、内田によれば吉野逼塞する文観東寺強い影響力があったとは考えにくく、名誉職的なものであったではないかという。この前日に文観後宇多供養行っていることを考えれば後醍醐父帝仏教政策継承していることを再確認し、真言密教大寺に対して任命権掌握しているという姿勢を示すという意図があったのではないか、と内田推測している。 この後3か月間、文観執筆活動専念して様々な仏教学書の述作行っている。その意味では、文観にとって比較平穏な日々だったようである。

※この「第3代東寺座主・第66代醍醐寺座主」の解説は、「文観」の解説の一部です。
「第3代東寺座主・第66代醍醐寺座主」を含む「文観」の記事については、「文観」の概要を参照ください。

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