第3代首相
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 16:24 UTC 版)
「クルト・ゲオルク・キージンガー」の記事における「第3代首相」の解説
1966年キリスト教民主同盟(CDU)・キリスト教社会同盟(CSU)及び自由民主党(FDP)の連立内閣からFDPが閣僚を引き上げて崩壊した際、キージンガーはライナー・バルツェル幹事長やゲアハルト・シュレーダー外相との党内での決選投票に勝ち、CDU党首のルートヴィヒ・エアハルト首相に取って代わった。キージンガーは新首相候補としてドイツ社会民主党(SPD)と交渉し、新たな大連立政権を樹立することに成功した。指名選挙ではSPDからの造反があったにもかかわらず連邦議会の全議席の3分の2以上の支持を得たが、これは戦後の首相指名投票では最高記録である。しかしナチスで働いた経歴があるキージンガーの首相就任に対する拒否反応は大きく、作家ハインリヒ・ベルに痛烈に批判され、哲学者カール・ヤスパースなどはスイスに国籍を変更したほどである。また、1968年11月7日のベルリンのCDU党大会で左派のフリージャーナリストであるベアテ・クラルスフェルトに「このナチ」と罵倒されて平手打ちを喰ったのは有名な話である。 先輩のアデナウアー元首相が「実行力がない」とキージンガーをくさしたにもかかわらず、彼はヴィリー・ブラントやフランツ・ヨーゼフ・シュトラウス、カール・シラー、ヘルベルト・ヴェーナーといったあくの強い政治家をよくまとめ、大連立内閣は約3年間続いた。1967年にはCDU党首に就任する。SPD党首のブラントを副首相兼外相に据えて東方外交を展開し、社会主義圏のチェコスロバキア、ルーマニア及びユーゴスラビアと外交関係を樹立した。この時代に西ドイツ国内では学生運動が盛り上がり、キージンガーは1968年に非常事態法を施行している。そのほか内政では、就学助成制度の充実や傷病労働者の収入保護といった法令を実現している。 SPDの大連立参加は、SPDが現実的な政権運営が可能な政党に脱皮する契機となった。1969年の総選挙後、躍進したSPDは第一党であるキリスト教民主同盟との連立を解消し、新たに自由民主党(FDP)と連立を組んで過半数を確保する。キージンガーはブラントと首相を交代して、戦後一貫して続いてきたCDU/CSU政権は中断することになった。CDU/CSUが与党に復帰するにはこの後13年も待たねばならなかった。キージンガーは今のところCDUの首相としては在任期間が最も短い。キージンガーは、野党としてのキリスト教民主社会同盟を1971年6月まで率いた。8期を務めて1980年に連邦議会議員を引退するまで、雄弁家として鳴らし、「銀の舌をもつ首長」("Häuptling Silberzunge")と称された。一方で彼が首相に就任したことは、戦後の西ドイツが第三帝国の過去を清算出来ていない実例として、現在に至るまで左翼(グレゴール・ギジなど)の攻撃の対象となっている。 1988年3月9日、バーデン=ヴュルテンベルク州テュービンゲン近郊の自宅で死去した。執筆中だった回顧録は州首相就任直前(1958年)の部分で絶筆になった。
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