領域と首都
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 05:59 UTC 版)
詳細は「スグナク」を参照 13世紀初頭、モンゴル帝国の誕生とともに成立したジョチ・ウルスの最初の領地は、イルティシュ河上流域を中心とする一帯であった。その後、チンギス・カンの征西が始まると、ジョチは別働隊として自らの領地に繋がるキプチャク草原東部に進出してホラズム軍を破り(カラ・クムの戦い)、更に西進してシル河中・下流域のオアシス諸都市を征服した。これら、ジョチ存命中に獲得されたジョチ家最初期の領地(イルティシュ河上流域〜シル河下流域)をオルダは継承しており、その中心地はジョチの初封地たる「イルティシュ河のユルト」にあった。 その後、時代が降りモンゴル王公の定住化が進むと、オルダ・ウルスもまた中心地をシル河下流域のオアシス諸都市に移すようになった。シル河下流域のオアシス諸都市の中でもとりわけ重視されたのがスグナクという都市で、『ムイーン史選』によるとオルダ・ウルスが弱体化し始めた14世紀半ばより、オルダ・ウルスを治めた歴代君主の墓はスグナクに置かれるようになったという。分裂状態にあったオルダ・ウルスを再統一してオロス・ハンはスグナクで多数の建設事業を行い、オロス・ハンを打倒したトクタミシュはスグナクで即位式を行ったと伝えられる。オロス・ハンの息子バラク・ハンはスグナクの領有を巡って同盟関係にあったティムール朝のウルグ・ベクと決裂したとされ、その際「スグナクの牧地は法的にも慣習的にも我が物であった。乃ち我が祖父オロス・ハンがスグナクにおいて建設を行ったからである」と語ったという。 このように、スグナクは後期オルダ・ウルス=青帳汗国にとって、君主が住まう政治の中心地として、シル河交易圏の結節点たる経済の中心地として、また歴代君主の墓廟が祀られる宗教の中心地として、重要な意味を持つ「首都」であった。16世紀初頭のイブン・ルーズビハーンはキプチャク草原を海に例えてスグナクを「キプチャク草原の港(Bsndar-i Dasht-i Qibchāq)」と呼び、またシャイバーニー朝の史家ハーフィズ・タニーシュはスグナクを「古来よりキプチャク草原の王者たちの首都であった」と記している。しかし、青帳汗国の解体が決定的となり、ウズベク・ハン国とカザフ・ハン国の領域が固定化していくとシル河流域の経済圏の中心地はより上流のタシュケント方面に移り、スグナクは衰退して現在では廃墟となっている。
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