マリク・カーフールの南征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/18 16:30 UTC 版)
「アラー・ウッディーン・ハルジー」の記事における「マリク・カーフールの南征」の解説
モンゴル軍の侵入は1308年の攻撃を持って一旦終息し、ラージャスターンのラージプート国家の征服事業も1308年までにはジャーロールを残してほぼ完了していた。 かつて臣従させたヤーダヴァ朝が貢納を拒むと、1307年にヒンドゥー教徒から改宗した解放奴隷マリク・カーフールに軍を預けてヤーダヴァ朝に向かわせ、王のラーマチャンドラを捕らえてデリーへ連行した。アラー・ウッディーンはデリーに送られたラーマチャンドラを丁重に扱い、彼に金品とグジャラート地方に領地を与え、婚姻関係を結んだうえで同盟を結んだ。カーフールはヤーダヴァ朝をデカン高原のヒンドゥー教国遠征の拠点として、1309年頃にマディヤ・プラデーシュ北部のチャンデーラ朝を滅ぼし、1310年には、カーカティーヤ朝の首都ワランガルを陥落させ、翌1311年にはるか南方のホイサラ朝の首都ドゥバーラサムドラを攻略し、ホイサラ王バッラーラ3世をデリーまで連行している。1310年から1311年にかけてカーフールの軍隊はパーンディヤ朝が支配するマーバールをも攻撃して首都マドゥライを略奪、破壊し、彼らはインド亜大陸南端のコモリン岬にまで達した。 バラニーは、この遠征で得られた戦利品について、612頭の象、多量の金と宝石類、2万頭の馬を持って翌1311年初頭にデリーに帰還したと伝える。このハルジー朝の南方遠征の主目的は財貨の獲得にあり、永続的な支配を意図したものではなかった。従属させた国家にはデリーへの貢納を拒むものも多く、ヤーダヴァ朝もラーマチャンドラが没した後にはハルジー朝との従属関係を断ち切り、反乱が起こるたびにカーフールの率いる軍隊が派遣された。 ハルジー朝の遠征を受けて弱体化したデカンと南インドに割拠していた諸王朝は、アラー・ウッディーンの没後のデリー・スルタン朝、あるいはヴィジャヤナガル王国によって次々に滅ぼされる。
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