第二次修築工事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 07:02 UTC 版)
大正末期頃から大阪港は再び狭いと評されるようになり、またも神戸港への遷移が目立ち始めていた。東京高商(現一橋大学)教授から大阪市長に転じた都市計画学者・關一は、1927年(昭和2年)、第一次修築工事の完工を待たずに、新淀川河口から大和川河口にかけて防波堤を築き、港域を2.5倍にする築港計画を策定し、1928年(昭和3年)から「大阪港第二次修築工事」に着手した。1939年(昭和14年)には貨物取扱量等が日本で最大となり、神戸・横浜と並ぶ日本三大港湾の一つとなった。第二次修築工事により北港が完成し、1944年(昭和19年)には築港の中央突堤も完成したが、第二次世界大戦激化のため第二次修築工事は中断され、南港は未完となった。 1945年(昭和20年)、大阪港一帯は米軍による大阪大空襲によって壊滅的な被害を受けた。焼け野原と化した港区は大阪市22区(当時)のうち犠牲者が最多となり、重工業地域の此花区西部は第5回と第7回の空襲において集中的な爆撃を受けた。また、同年9月に発生した枕崎台風によって高潮と浸水が起こった。
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