第二次六角征伐
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延徳2年(1490年)1月7日、8代将軍だった足利義政が死去、同年7月5日、伯母の日野富子の推挙により、足利義材は10代将軍に就任し、六角行高を赦免したが、同年10月、六角氏の内衆は寺社本所領の返還を拒絶した。 延徳3年(1491年)4月21日、足利義材は六角征伐近を行うことを宣言した。父の足利義視は同年1月、母の日野良子は前年10月に相次いで死去、また伯母の日野富子とは疎遠となっており、義材は京で孤立を深め奉公衆の力を必要としていたと考えられる。 この号令に対し、「大名共悉以罷上者也、不仰出躰も面々罷上云々」(大乗院寺社雑事記延徳3年11月29日条)と出陣命令を受けなかった大名までも参陣し、その軍勢は、「常徳院殿(足利義尚)御出陣ニ百倍也」(大乗院寺社雑事記延徳3年8月27日条)と云われ、また、「雲の如し、霞の如し」と評された。 延徳3年8月27日、足利義材は大軍を率いて近江大津三井寺光浄院に本陣を置き、赤松政則、武田元信を師奉行(司令官)に任じた。また、細川政元を近江守護に任じて先陣を命じ、政元の重臣安富元家は西進し、10月1日には近江の金剛寺まで達した。対する六角行高は甲賀に退去しゲリラ戦を展開した。しかし、赤松重臣の浦上則宗と斯波重臣の織田敏定の活躍により、六角一族の山内政綱が降伏、義材はこれを許さず誅伐し、功績のあった両名に直々に剣を与えた。 延徳4年(1492年)3月、安富元家が六角軍に奇襲されて金剛寺から敗走した。足利義材は赤松政則、武田元信、斯波義寛に出撃を命じ、浦上則宗、逸見弾正、織田敏定が送り込まれ、3月29日、安富元家と合流して簗瀬河原で六角勢4000人を打ち破った。義材は浦上らに感状と太刀を与えている。同年5月、義材は安富元家に替えて斯波義寛を先鋒に任じ、赤松氏、武田氏と共に甲賀に送り込んだ。さらに10月17日には自ら出陣して金剛寺に本陣を置き六角征伐を進めたため、六角軍は甲賀を捨てて伊勢に逃亡したが北畠氏の軍勢に迎え撃たれ潰走した。 足利義材は、細川政元に替えて六角虎千代(六角政堯の養子)を守護に任命して兵を引き払い、12月14日に京に凱旋した。
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