第二次六角征伐とは? わかりやすく解説

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第二次六角征伐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 15:07 UTC 版)

長享・延徳の乱」の記事における「第二次六角征伐」の解説

延徳2年1490年1月7日8代将軍だった足利義政死去同年7月5日伯母日野富子推挙により、足利義材10代将軍就任し六角行高を赦免したが、同年10月六角氏内衆寺社本所領返還拒絶した延徳3年1491年4月21日足利義材六角征伐近を行うことを宣言した。父の足利義視同年1月母の日野良子は前年10月相次いで死去、また伯母日野富子とは疎遠となっており、義材は京で孤立深め奉公衆の力を必要としていたと考えられる。 この号令対し、「大名共悉以罷上者也、不仰出躰も面々罷上云々」(大乗院寺社雑事記延徳3年11月29日条)と出陣命令を受けなかった大名までも参陣し、その軍勢は、「常徳院殿(足利義尚御出陣ニ百倍也」(大乗院寺社雑事記延徳3年8月27日条)と云われ、また、如し如し」と評された。 延徳3年8月27日足利義材大軍率いて近江大津三井寺光浄院本陣を置き、赤松政則武田元信を師奉行司令官)に任じたまた、細川政元近江守護任じて先陣命じ、政元の重臣安富元家西進し10月1日には近江金剛寺まで達した対す六角行高は甲賀退去しゲリラ戦展開した。しかし、赤松重臣浦上則宗斯波重臣織田敏定活躍により、六角一族山内政綱降伏、義材はこれを許さず誅伐し、功績のあった両名直々に剣を与えた延徳4年1492年3月安富元家六角軍に奇襲されて金剛寺から敗走した足利義材赤松政則武田元信斯波義寛出撃命じ浦上則宗逸見弾正織田敏定送り込まれ3月29日安富元家合流して簗瀬河原六角4000人を打ち破った。義材は浦上らに感状太刀与えている。同年5月、義材は安富元家替えて斯波義寛先鋒任じ赤松氏武田氏と共に甲賀送り込んだ。さらに10月17日には自ら出陣し金剛寺本陣を置き六角征伐進めたため、六角軍は甲賀捨てて伊勢逃亡した北畠氏軍勢迎え撃たれ潰走した。 足利義材は、細川政元替えて六角千代六角政堯養子)を守護任命して兵を引き払い12月14日に京に凱旋した

※この「第二次六角征伐」の解説は、「長享・延徳の乱」の解説の一部です。
「第二次六角征伐」を含む「長享・延徳の乱」の記事については、「長享・延徳の乱」の概要を参照ください。

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