第一次修築工事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 07:02 UTC 版)
1873年(明治6年)、オランダ人技師G.A.エッセルとヨハニス・デ・レーケが来日し、大阪入りした。彼らは日本政府から、長年悩みの種であった淀川の治水および港湾機能回復の案を出すよう望まれ、現地調査のうえ淀川に放水路を開削し、天保山付近へ新港を建設するという解を出し、改修計画を作った。しかしこれらは政府の財政難のため実現していない。 1885年(明治18年)には有史以来とも言われる淀川大洪水が発生し、大阪の経済は一時麻痺状態に陥った。外国船が入港しなくなったこともあり、大阪市民の間から淀川付け替えと国際貿易港の建設の声が高まるが、財政難の政府はデ・レーケ案のうち新淀川開削を優先して着工した。これに対して、1890年(明治23年)に大阪市民の有志らが発起人となって、独自にデ・レーケらと天保山付近での築港調査を開始する。特に、大阪湾に西面する河口付近では、西風に起因する波に直面するため、河口を南北から挟み込むように大きな防波堤が構想された。大阪市は1894年(明治27年)に築港計画を策定し、1897年(明治30年)には西成郡川南村をはじめとする海側の町村を編入した上で(大阪市第一次市域拡張)、政府ではなく大阪市営のプロジェクトとして「大阪港第一次修築工事」の起工式を天保山で行った。難波津以来となる海港の造成というこの一大プロジェクトには、当時の市の予算の30倍に当たる巨費が投じられた。 安治川河口からは直線的に、木津川河口からは尻無川の延長線上へカーブしてから直線的に延びる防波堤を築き、現在の港区側に当たる外港部分と、大正区側に当たる内港部分の2ブロックからなる計画であった。防波堤内を約8.5mの水深まで掘り下げ、その土砂で現在の港区築港・海岸通、大正区鶴町・船町などが埋立造成された。1903年(明治36年)には築港大桟橋が完成し、花園橋 - 築港間に大阪市電築港線が開通した(公営電気鉄道では日本初)。 しかし当初大桟橋の利用が伸びず、大型船が来ない代わりに夕涼みと魚釣りの市民で賑わう有様であった。1916年(大正5年)、市の財政難と、西風にあおられ地盤も弱い河口付近の難工事により、第一次修築工事は一時中断してしまう。しかし、第一次世界大戦景気で大阪港の利用が増え、築港の完成を望む声が高まったため、1918年(大正7年)から市に代わり民間企業の資金協力・工事代行(完成後は出資業者が優先使用)により再着工された。そして、1929年(昭和4年)に32年にわたる第一次修築工事が完工した。
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