第一次作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 02:18 UTC 版)
「西部戦線 (南北戦争)」の記事における「第一次作戦」の解説
グラントの第一次作戦は2手に別れた動きだった。シャーマンが32,000名の部隊と共に船でミシシッピ川を下り、グラントは40,000名の部隊を率いて川に沿って鉄道で移動するというものだった。グラント軍は80マイル (130 km)進んだが、南軍のアール・ヴァン・ドーンが指揮する騎兵隊にホリー・スプリングスで補給線を絶たれたために、後退を余儀なくされた。シャーマンはビックスバーグ市の真北にあるヤズー川まで到着したが、グラント軍の支援が無いままに12月遅くのチカソーバイユーの戦いで損失を出し撃退された。 この時に政治的な思惑が入ってきた。イリノイ州の政治家で少将のジョン・A・マクラーナンドがリンカーンからの許可を得てイリノイ州南部で徴兵し、ビックスバーグを目指して川を下る遠征隊の指揮を執った。マクラーナンドはシャーマンの軍団を自分に割り当てられる予定だったが、マクラーナンドが到着する前にシャーマンはメンフィスを離れていた。シャーマンがヤズーから戻ると、マクラーナンドが軍団の管理権を行使した。マクラーナンドはアーカンザス川のハインドマン砦を占領(アーカンソー・ポストの戦い)することで初期の目的からは不可解な回り道をしたが、その主要行動を再開する前にグラントが再び指揮を執り、マクラーナンドはグラントの軍団指揮者となった。冬の残りの期間を使ってグラントはビックスバーグの町に取り付くための5つの別々の計画を試みた。それらはビックスバーグの北にある川、運河やバイユーを使って移動し土木工事を伴うものだった。5つの計画全てが失敗だった。グラントは後にこれらの失敗工作は予測していたことであり、単に兵士を休ませないためと士気を上げるためにやったと説明したが、多くの歴史家はグラントが真に幾つかは成功するものと期待していたと信じ、またそれらの計画が大がかり過ぎたとも思っている。
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