キスカ・ブーゲンビル・ラバウル
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「長波 (駆逐艦)」の記事における「キスカ・ブーゲンビル・ラバウル」の解説
「キスカ島撤退作戦」も参照 7月7日、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将の指揮下、キスカ島撤退作戦第一次作戦に警戒部隊(初霜、若葉、島風、長波、五月雨)として参加する。しかし、第一次作戦はキスカ島方面の霧が晴れてきたことで7月15日に作戦中止となり、18日幌筵島に帰投した。第二次作戦は7月22日から開始された。翌日、3隻(長波、日本丸、国後)は霧のために艦隊から落伍した。24日、長波と日本丸は艦隊に合流できたが、国後は依然として所在不明だった。7月26日夕方、突入部隊は国後を原因とする多重衝突事故を起こす。艦隊最後尾にいた若葉(第21駆逐隊司令駆逐艦)-初霜-長波は前方の混乱の余波をうけた。まず初霜が、前方航行中の若葉の右舷後部に衝突する。後進をかけた初霜は、後続していた長波に衝突した。長波は右側に回避行動をとっており、初霜の艦尾が長波左舷後部に衝突した。外板に少し凹みが生じて若干量の浸水もあったが、作戦に支障は無かった。撤退作戦後、長波以下各艦は8月3日附で北方部隊の指揮から離れ、原隊に戻ることとなった。長波と響はタンカー日本丸(山下汽船、9,971トン)を舞鶴近海まで護衛した。8月7日、長波は舞鶴に到着し、舞鶴海軍工廠で修理をおこなう。9月4日まで修理を行った。翌日、長波は舞鶴を出撃した。 修理後の9月15日、長波と島風は重巡洋艦鳥海と摩耶を護衛して横須賀を出撃し、トラックを経由してラバウルに向かう。9月20日にトラック泊地着後、各艦に分乗していた防空隊は摩耶と長波に移乗した。摩耶と長波はラバウルに移動してブカ島配備予定の防空隊を揚陸し、トラック泊地にもどった。任務終了後はトラックで待機し、10月17日からはマーシャル諸島方面に出撃する第三艦隊(司令長官小沢治三郎中将・海兵37期)と第二艦隊(司令長官栗田健男中将)の護衛に就いた。 「ブーゲンビル島沖海戦」および「ラバウル空襲」も参照 10月28日、連合艦隊はろ号作戦を発動する。この作戦において、第一航空戦隊の飛行機隊を南東方面の陸上基地に配備することにした。第十戦隊大杉守一少将を指揮官とする輸送部隊(第一部隊〈阿賀野、初風、若月、長波〉、第二部隊〈大波、風雲〉、第三部隊〈天津風〉、修理後投入〈巻波〉)は、それぞれ一航戦の基地員と物件をラバウルやカビエンに輸送した。ラバウル到着後の第一部隊は、そのままブーゲンビル島トロキナ方面への殴り込みおよび逆上陸部隊を掩護する連合襲撃部隊(指揮官大森仙太郎第五戦隊司令官)に組み込まれた。連合襲撃部隊は、第一襲撃部隊(妙高、羽黒)、第二襲撃部隊(川内、時雨、白露、五月雨)、第三襲撃部隊(阿賀野、長波、初風、若月)として出撃した。11月1日から2日にかけての深夜に生起したブーゲンビル島沖海戦で日本軍は敗北し、川内と初風を喪失した。 ラバウルに帰投後、長波はラバウル空襲に遭遇する。11月5日の空襲で栗田長官の重巡洋艦部隊は大損害を受けたが、長波ふくめ二水戦各艦に深刻な被害はなかった。大破した摩耶、第十戦隊と第二水雷戦隊の大部分を残し、重巡洋艦部隊はトラック泊地へ退却した。11月6日から10日にかけては第十戦隊とともにトロキナへの逆上陸作戦に従事した。長波の兵力部署は、支援部隊麾下の第二支援部隊(指揮官高間完第二水雷戦隊司令官、旗艦〈能代〉、早波、長波)であった。 この頃、11月5日の空襲に満足したハルゼー大将は、更なる戦果拡大を狙って太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将に新手の空母任務部隊の派遣を要請。ニミッツ大将はギルバート諸島方面の戦況をにらみつつ、第50.3任務群(アルフレッド・E・モントゴメリー少将)を派遣することに決した。11月11日早朝、第38任務部隊(フレデリック・シャーマン少将)はブーゲンビル島北方から、第50.3任務部隊は同島南方から挟み撃ちの格好で艦載機を発進させた。これに対し、ラバウルから発進した偵察機は第50.3任務群を発見する。これに伴い、ラバウル在泊の第二水雷戦隊と第十戦隊は折からのスコールにまぎれて港外に脱出しつつあった。7時15分、急降下爆撃機十数機の攻撃を受けて後甲板に被弾し、操舵不能になったうえ爆圧でスクリューが脱落して航行不能となった。数分後には、姉妹艦涼波(第32駆逐隊)が魚雷と爆弾命中により轟沈した。 第二水雷戦隊と第十戦隊の大部分はトラック泊地に撤収したが、第31駆逐隊(大波、長波、巻波)はラバウルに残った。長波は仮修理を受け、本格的な修理のため曳航されて後送される事になった。12月3日、軽巡洋艦夕張と駆逐艦文月の護衛下、駆逐艦水無月に曳航されてラバウルを出港する。5日までは駆逐艦天霧も護衛に協力、計三回連合軍機と遭遇したが被害を受けることはなかった。8日、長波曳航部隊はトラックに入港した。1944年(昭和19年)1月15日、今度は軽巡洋艦長良に曳航されてトラックを出港した。護衛には駆逐艦卯月と夕凪がついた。米軍潜水艦が跳梁する中での曳航のため生還は難しいとみられ、長良乗組員は病院船氷川丸に預けていた長良戦死者の遺骨を引き取り、艦内に安置して航海に臨んだ。長波回航隊は4隻とも内地へ帰投できた。1月24日、内海西部着。長波は呉海軍工廠で本格的修理に入った。
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