キスカ島護衛作戦と戦線離脱
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「不知火 (陽炎型駆逐艦)」の記事における「キスカ島護衛作戦と戦線離脱」の解説
第18駆逐隊は1942年(昭和17年)6月23日、第七戦隊の重巡鈴谷、重巡熊野を護衛して呉に戻った。28日、陽炎を除く3隻(霰、霞、不知火)は、横須賀から水上機母艦千代田と、特設運送船あるぜんちな丸に乗せた兵員の護衛をしてキスカ島に向かった。 詳細は「7月5日の海戦」を参照 7月5日夕、千代田とあるぜんちな丸はキスカ湾に入港した。第18駆逐隊は濃霧のため予定と異なって湾外に仮投錨した。米潜水艦グロウラーが第18駆逐隊を発見し、不知火と霞に魚雷各1本、霰に魚雷2本を発射し、各艦に1本ずつ命中した。不知火は第一缶室に被雷して大破し、第一、第二缶室が浸水した上、後甲板も曲がって竜骨が切断され、自力航行や曳航が不可能になった。霞も航行不能になり、霰は主砲で反撃したが2本目の魚雷を打ち込まれて沈没した。 駆逐隊の宮坂司令は、乗員の疲労を考えて転錨を遅らせたこと、霧のため予想より沖合に停泊してしまったこと、米潜水艦の活動は仮泊地には及ばないと考えていたこと、などが大被害の要因になったと回想している。第五艦隊参謀長中澤佑大佐は、南方からきて疲労していた第18駆逐隊が北方地域の日の出の時刻を勘違いした可能性を指摘している。 1942年7月5日には、アッツ島沖で駆逐艦子日が米潜水艦トライトンの雷撃で撃沈された。 宇垣纏連合艦隊参謀長は各艦隊の参謀長に、小型艦艇を含めて潜水艦への警戒を怠らないよう注意を促す事態となった。 不知火と霞は、キスカ湾の空襲で6月に沈没した第五艦隊の特設運送船日産丸の残骸に隠れて、応急修理を行った。宮坂は7月14日に司令の任を解かれた。7月20日、「陽炎」を除く第十八駆逐隊は第五艦隊に編入され、「陽炎」は第十五駆逐隊に編入された。北方部隊指揮官は第十八駆逐隊などを附属部隊に編入した。不知火と霞の修復のため、資材と工員を乗せた駆逐艦長波が27日、キスカ島に到着した。同日、霞は駆逐艦雷に曳航され、陽炎が護衛しキスカ島を出発し、最終的に舞鶴に到着した。不知火はなおも曳航できず、8月2日に艦橋と一番煙突の間で船体を切断した。当初は横須賀での修理を予定していたが、8月11日に舞鶴での修理に決まった。 8月15日、第18駆逐隊は解隊され「不知火」と「霞」は第五艦隊附属となった。同日、駆逐艦電がキスカ湾に到着して不知火を曳航し、駆潜艇26号が護衛した。20日に幌筵島に到着し、21日に神津丸(摂津商船)に曳航されて出発した。8月31日、霞と不知火は戦時編制から除かれ、特別役務駆逐艦に指定された。不知火は9月3日に舞鶴に入港し、舞鶴工廠で1年2か月に及ぶ長期の修理と整備に入った。 ガダルカナル島撤退作戦で大破し1943年(昭和18年)4月に舞鶴に入渠した駆逐艦巻波 の人見豊治艦長は、機関部が深刻に損傷した巻波の早期修理のため不知火用の機関を流用するよう提案している。 ソロモン諸島で沈没した陽炎が1943年6月20日に除籍されると、艦艇類別表で登録上の陽炎型駆逐艦の呼称は不知火型に変更になった。修理が完了に近づいた10月15日、呉鎮守府第四予備艦から第一予備艦に変更され、舞鶴鎮守府部隊に編入した。対空機銃、レーダー、水中聴音機、他各部の装備改良を行った後、11月15日、修理は完了した。
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