第一次入植(1788年-1814年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/26 05:38 UTC 版)
「キングストンとアーサーズ・ヴェールの歴史地区」の記事における「第一次入植(1788年-1814年)」の解説
ノーフォーク島にヨーロッパの住民が上陸したのは、1774年10月10日のことである。ジェームズ・クックは、レゾリューション号に乗り、第2回航海(1772年-1775年)を実施した際に、ノーフォーク島はヨーロッパ人に発見された。上陸したクックは、直ちに、ノーフォーク島をイギリスの主権下にあることを宣言した。 ノーフォーク島への移住が本格的に開始されたのは、1788年になる。アーサー・フィリップによるニューサウスウェールズ植民地上陸後、直ちに、ノーフォーク島への探検が実施された。フィリップ・ギドレー・キング(Phillip Gidley King)を中心とする一行がノーフォーク島へ上陸に成功したのは、1788年3月2日のことである。キング一行の構成員は、4人の軍人と4人の公務員、9人の男性囚人、6人の女性囚人で構成されていた。彼らの最初の定住地は、船舶の停泊に用意で新鮮な水を手に入れることができる現在のキングストンであった。その後の島の開拓は、アーサーズ・ヴェール方面へと延びていった。 1790年、シリウス号が難破したことにより、ノーフォーク島は、一時的に孤立した状態となった。島に残された住民は飢餓生活を余儀なくされ、この生活は翌年、キングがシドニーからノーフォーク島に帰還するまで、継続した。1791年より、キングの手によって、キングストンの街の設計とそれに基づく本格的な建設が開始された。1793年までには、キングストンは、小さな村の形を形成し、4つのメイン・ストリートと島の各所を結ぶ道路が建設された。インフラ面の整備は続き、1795年中には、アーサーズ・ヴェールには水車が建設されると同時に、ポイント・ハンター地区には、脱穀用の風車が建設された。 キングストンの開発は、キングがノーフォーク島を去り、彼の後を継いだJoseph Foceauxの指揮下でも続けられた。上陸した地点の施設を改修する形で、簡素だった施設が石造りのバラック、倉庫、牢獄が建設された。しかし、1800年中には、ノーフォーク島内で、囚人による陰謀事件が発生した。その結果として、ノーフォーク島総督の権威を上昇させるために、簡素であった総督官邸を新築することとなった。 ノーフォーク島の開発の主役は、自由になった囚人たちと軍隊のメンバーである。彼らには、大小さまざまな形ではあるが、キングストン周辺(南はシドニー湾から北はカスケードまでの間)の土地が与えられた。 Foceauxがノーフォーク島を1803年に去った。しかしながら、1792年に1156人を記録していた人口が1801年には960人に減少していた。一方、同じ頃、タスマニア島の開発が進展していった。さらに、ノーフォーク島内での自給が困難だった事情とあいまって、ノーフォーク島第一次移住は、1814年2月28日に終わりを告げ、建築物は火によって、破却されることとなった。
※この「第一次入植(1788年-1814年)」の解説は、「キングストンとアーサーズ・ヴェールの歴史地区」の解説の一部です。
「第一次入植(1788年-1814年)」を含む「キングストンとアーサーズ・ヴェールの歴史地区」の記事については、「キングストンとアーサーズ・ヴェールの歴史地区」の概要を参照ください。
- 第一次入植のページへのリンク