第一次共産党に参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/12 06:19 UTC 版)
その後1922年7月頃とされる日本共産党(第一次共産党)の創立大会に参加し、中央委員に選ばれた。恩師・片山潜の唱えた「議会政策論」の影響もあって、党内では高津正道・高尾平兵衛らとともに積極的な普選運動参加論を代表し、12月にはこの2人とともに「時局研究会」を結成した。またこれより以前の1921年1月 - 6月には大杉栄とともに『労働運動』(第2次)を発刊するなど「アナ派」との提携にも熱心であったが、1923年2月市川で開催された第2回党大会において近藤は党内で力を失い、アナ・ボル提携は頓挫した。その後6月には高津とともに島中雄三を巻き込み無産政党設立準備のため「政治問題研究会」を結成したが、同月、第一次共産党事件による弾圧の中で地下に潜行しソ連に亡命した(「政治問題研究会」は震災後の12月に再建され後の政治研究会の前身となった)。第一次共産党解党後、1924年6月 - 7月に開催されたコミンテルン第5回大会には片山らとともに日本副代表として参加し、またプロフィンテルン第3回大会で執行部に選出されブハーリン派として活動したが、1926年11月に帰国した。
※この「第一次共産党に参加」の解説は、「近藤栄蔵」の解説の一部です。
「第一次共産党に参加」を含む「近藤栄蔵」の記事については、「近藤栄蔵」の概要を参照ください。
- 第一次共産党に参加のページへのリンク