第一次六角征伐とは? わかりやすく解説

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第一次六角征伐(鈎の陣)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 15:07 UTC 版)

長享・延徳の乱」の記事における「第一次六角征伐(鈎の陣)」の解説

文明11年1479年11月第9代将軍足利義尚判始行ったが、先代将軍足利義政政務移譲渋って対立し文明17年1485年4月には奉公衆奉行衆諍いから、布施英基が義尚小川御所にて奉公衆殺害されている。そして、長享元年1487年9月12日足利義尚は、管領細川政元をはじめ、若狭守護武田国信等の守護大名在京奉公衆在国奉公衆さらには公家衆率いて近江坂本出陣した。この時、義尚奉行衆連れており、鈎の陣実質的に幕府政務担ったが、奉行衆のうち義政側近であった伊勢貞宗飯尾元連、松田数秀等は同行許され政務から外された。義尚遠征対し六角行高は観音寺城放棄して撤退した。しかし、甲賀郡山間部でのゲリラ戦展開し戦闘膠着状態に陥った詳細は「甲賀流」を参照長享2年1488年6月には、加賀守護・富樫政親加賀一向一揆激化によって領国帰還し一揆勢に敗れ討たれている。さらに義尚は、本願寺や一揆勢をも討伐する意向を示すが、六角氏討伐理由とする政元から反対されて断念する同年義尚側近結城尚豊近江守護任命した。 なお、義尚諸大名上洛命じたが、多く大名はこの討伐警戒し子息家臣代理として派遣したまた、越前守護の朝倉貞景は自らは本国越前留まりながらも、一門朝倉景冬坂本派兵し協調姿勢見せたが、美濃守護の土岐成頼嫡男土岐政房派遣した。なお、成頼は西軍名目上総大将だった足利義視・義材父子美濃革手城保護しており、また朝倉貞景土岐家実権を握る斎藤妙純の娘を正室迎えており両者婚姻関係にあった尾張守護斯波義寛織田敏定織田寛広ら両織田一族8000大軍率いて幕府軍に参陣したこの際越前実効支配する朝倉氏幕府軍へ参陣すると、かつての家臣と同陣することに大きな屈辱感じた義寛は、義尚に対して朝倉氏越前押領自身越前回復訴えた長享訴訟)。この争論では斯波氏朝倉氏ともに越前支配正統性主張して互いに譲らず、幕府としても討伐目標前にしながら内輪揉めは望まなかったため、斯波義寛色良い答え出ず、義寛は2月23日失火口実に陣を払った。 更に、足利義尚側近衆である結城政胤・尚豊兄弟大館尚氏二階堂政行が、奉公衆からも反発を受け、遠征はますます膠着状態に陥った長享3年1489年3月足利義尚体調崩し重体となったため、近臣らは養生のため義尚一時帰京させて、足利義視・義材親子六角氏討伐一時的に任せようはかった。これに義視・義材親子同意した美濃から出国する直前3月26日足利義尚近江鈎の陣中で死去した4月14日義視・義材親子入京し、4月22日には日野富子邸(小川御所)に移った近江では守護であった結城尚豊出奔し六角討伐中断となった

※この「第一次六角征伐(鈎の陣)」の解説は、「長享・延徳の乱」の解説の一部です。
「第一次六角征伐(鈎の陣)」を含む「長享・延徳の乱」の記事については、「長享・延徳の乱」の概要を参照ください。

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