第一次六角征伐(鈎の陣)
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「長享・延徳の乱」の記事における「第一次六角征伐(鈎の陣)」の解説
文明11年(1479年)11月、第9代将軍・足利義尚は判始を行ったが、先代将軍の足利義政は政務移譲を渋って対立し、文明17年(1485年)4月には奉公衆と奉行衆の諍いから、布施英基が義尚の小川御所にて奉公衆に殺害されている。そして、長享元年(1487年)9月12日、足利義尚は、管領・細川政元をはじめ、若狭守護・武田国信等の守護大名、在京奉公衆、在国奉公衆、さらには公家衆も率いて近江坂本へ出陣した。この時、義尚は奉行衆も連れており、鈎の陣は実質的に幕府の政務も担ったが、奉行衆のうち義政側近であった伊勢貞宗、飯尾元連、松田数秀等は同行を許されず政務から外された。義尚の遠征に対し、六角行高は観音寺城を放棄して撤退した。しかし、甲賀郡山間部でのゲリラ戦を展開し、戦闘は膠着状態に陥った。 詳細は「甲賀流」を参照 翌長享2年(1488年)6月には、加賀守護・富樫政親が加賀一向一揆の激化によって領国へ帰還し、一揆勢に敗れ討たれている。さらに義尚は、本願寺や一揆勢をも討伐する意向を示すが、六角氏討伐を理由とする政元から反対されて断念する。同年、義尚は側近の結城尚豊を近江守護に任命した。 なお、義尚は諸大名に上洛を命じたが、多くの大名はこの討伐を警戒し、子息や家臣を代理として派遣した。また、越前守護の朝倉貞景は自らは本国越前に留まりながらも、一門の朝倉景冬を坂本に派兵し協調姿勢を見せたが、美濃守護の土岐成頼は嫡男の土岐政房を派遣した。なお、成頼は西軍の名目上の総大将だった足利義視・義材父子を美濃革手城に保護しており、また朝倉貞景は土岐家の実権を握る斎藤妙純の娘を正室に迎えており両者は婚姻関係にあった。 尾張守護の斯波義寛は織田敏定、織田寛広ら両織田一族等8000の大軍を率いて幕府軍に参陣したがこの際、越前を実効支配する朝倉氏が幕府軍へ参陣すると、かつての家臣と同陣することに大きな屈辱を感じた義寛は、義尚に対して朝倉氏の越前押領と自身の越前回復を訴えた(長享の訴訟)。この争論では斯波氏・朝倉氏ともに越前支配の正統性を主張して互いに譲らず、幕府としても討伐目標を前にしながらの内輪揉めは望まなかったため、斯波義寛に色良い答えが出ず、義寛は2月23日、失火を口実に陣を払った。 更に、足利義尚の側近衆である結城政胤・尚豊兄弟、大館尚氏、二階堂政行が、奉公衆からも反発を受け、遠征はますます膠着状態に陥った。 長享3年(1489年)3月、足利義尚は体調を崩し重体となったため、近臣らは養生のため義尚を一時帰京させて、足利義視・義材親子に六角氏討伐を一時的に任せようとはかった。これに義視・義材親子は同意したが美濃から出国する直前の3月26日、足利義尚は近江鈎の陣中で死去した。4月14日、義視・義材親子は入京し、4月22日には日野富子邸(小川御所)に移った。近江では守護であった結城尚豊が出奔し、六角討伐は中断となった。
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