第二次今市の戦い
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5月6日、旧幕府軍は一斉攻撃を始めた。今回は第一次攻撃の失敗を教訓として、第二大隊と第三大隊及び会津藩兵からなる600名を主力として今市の東から攻撃を行い、少数部隊が高百に位置して日光方面の彦根藩兵を警戒するほか、他の一部隊が今市北北東の茶臼山から牽制して主力部隊の攻撃を容易にするという作戦の下での攻撃であった。旧幕府軍は今市東南東の森友を本部として、会津藩朱雀三番寄合組隊が右翼を、第三大隊が中央に、会津藩朱雀二番士隊が左翼に展開して今市東端の新政府軍陣地に向かって攻撃前進した。一方第二大隊は予備として森友に留まった。 今市の守備を担当していた新政府軍(土佐藩)の兵力は、当初は東正面の警備を担当していた一番隊と十一番小隊及び砲1門のみであった。しかし次第に増援を回し右翼に十番隊が到来して旧幕府軍を側撃しようとしたが、これは旧幕府軍左翼隊に遮られたため目的を達成することができなかった。その後次々と土佐藩の他部隊が来援し、胸墻陣地内部で頑強な抵抗を6時間ほど行った。旧幕府軍は予備の第二大隊も参戦して猛攻を加え、堡塁の手前まで到達したが臨時の要塞と化した陣地から土佐藩兵は激烈な射撃を放って陣地内に旧幕府軍の侵入を許さなかった。 戦況がこのように激化するまでの間土佐藩兵は以下のような苦境に置かれていた。今市を守備していた土佐藩兵は、本国から来た新来の援軍が全て宇都宮警備に回された上、二番隊と六番隊は傷病者を江戸に護送して未だ帰還していないという状態であった。しかし江戸から急使が派遣され、新たに土佐本国から2小隊と砲兵一隊が江戸に到着し、これを直ちに今市に派遣すると同時に二番隊と六番隊も速やかな帰還が命じられた。さらに宇都宮警備に派遣された十三番隊も今市の情勢が剣呑である事を考慮して5月3日に今市に帰着した。このため今市の土佐藩司令部は本国から江戸に派遣された新部隊に対して、直接今市に来ずに一旦宇都宮に赴き、宇都宮の警備隊に連絡して敵状を確認してから今市に来るように命じた。従ってこの部隊の今市到着の予定は第二次戦闘が行われた6日の予定であった。本戦闘の前日夜に、土佐藩兵は敵兵が今市北東の芹沼に出現したという情報を基に、各兵に警戒を厳重にさせると同時に宇都宮方面から来援する予定の部隊に対して、「明日6日の正午ごろに到着するように行軍せよ。かつ今市東方で敵軍と遭遇することを想定せよ。」との指令を出した。また、守備隊の各隊長には、翌日の敵襲を予期して宇都宮から来援する部隊と挟撃するため、旧幕府軍の攻勢を受けた正面では少なくとも正午までは持久戦を展開し、濫りに攻勢を仕掛けることなく、宇都宮から援軍が到着して挟撃の体制が完了した際に激しく敵を攻撃して殲滅を期するという厳命を伝達して敵襲を待った。旧幕府軍は前夜の土佐藩の想定通りに東正面から大挙襲来したため、板垣はかねてからの計画通りであると藩兵を鼓舞して配置に付かせると同時に、日光守備の彦根藩兵にも敵襲を通報した。 新政府軍は予定通り堡塁について防戦に専念したが、東正面の大鳥軍は全兵力を駆使して猛烈な攻勢を取った。特に第二大隊の指揮官である大川正次郎と滝川具綏は抜刀して先頭に立ち、堡塁50歩手前まで肉薄するほどの奮戦をした。土佐藩兵の猛烈な射撃でこれらの攻勢もそれ以上は肉薄できなかったが、東正面の土佐藩兵は当初3小隊と増援半隊と砲1門のため苦戦著しかった。土佐藩は1隊と北西警備の北村重頼包隊の臼砲が来援したが、これも大鳥軍の攻勢を阻むには至らず押されがちであった。 正午近くに日光方面の彦根藩兵2小隊が土佐藩の増援の為に今市西口に到着し、1小隊が所野から高百に向かって直接日光の警戒を実施すると同時に敵軍が今市西口方面に攻勢を仕掛けて来る場合を想定して警戒に当たった。苦戦している土佐藩兵は正午に至っても宇都宮方面からの援軍が到着せず、板垣総督は作戦計画を変更することを決断した。即ち、西口の守備を彦根藩兵に任せ、同地を守備していた八番隊半隊と予備隊として控えていた断金隊を合わせた1小隊半の兵力で、今市南口の平ケ崎から山地を伝って東南に迂回し、千本木の南方に出て敵の左背面を攻撃させ、この迂回部隊に連携して西正面の七番隊が土佐藩兵右翼と迂回部隊の中間から敵兵を攻撃するという計画である。また、北正面では茶臼山と瀬尾付近の旧幕府軍が大谷向付近に現れたため北村砲隊が砲撃したが、敵軍は渡河しなかった。板垣は西口守備の斉武隊も東口に増援させた。 土佐藩迂回隊が所定の配置についた時、時刻は午後二時頃であり、迂回隊の攻撃開始と同時に山地元治指揮下の七番隊が出撃し、ここに大鳥軍左翼は完全に新政府軍に包囲された。この時森友の大鳥軍司令部の予備兵力は皆無であり、本部の10数名がいるだけで救援の兵は一兵も無かった。たちまち攻守は逆転し、土佐藩兵の包囲攻撃によって大鳥軍左翼はあっという間に内曲的に後退させられ、土佐藩兵が大鳥軍左翼の包囲を形成するに従って更なる内曲後退を強いられた。また、土佐藩兵左翼を構成していた北正面守備の三番、四番隊は十三番隊の援護によって直角に正面転換して東正面の旧幕府軍を半包囲するように攻撃前進した。ついに大鳥軍はその両翼が包囲されたのである。 大鳥軍の前面が敗退必至の状態となっている最中に待望の宇都宮方面からの新政府軍増援部隊が到着した。この増援部隊は6日早朝出発を予定していたところ、宇都宮警備の十四番隊から共同参戦を申し出られ、また道案内を出す代わりに宇都宮藩も一隊を出兵することになった為出発が遅れた。また、宇都宮ー今市間の道は連日の降雨で状態が悪く急行が困難であった。このように進軍に難航しながらも午後三時ごろに大鳥軍本営がある森友東方に到達した。戦闘に間に合った増援部隊は土佐藩十四番隊と信頼の十五番隊、及び宇都宮藩1隊であった。この増援部隊は大鳥軍司令部を背面から急襲した。大鳥軍本営は司令部要員しかおらず、大鳥達は森林に身を避けたところ今度は別の新政府軍に攻撃され、辛うじて離脱して小佐越まで潰走した。 大鳥軍司令部が潰走していた頃、大鳥軍の戦闘部隊も敗北が決定的な状況に追い込まれていた。両翼が包囲された上、正面の土佐藩兵が攻勢に移転したことで後退に後退を重ねながら次第に統率を喪失し、ついに潰乱して敗走した。さらに背面からは宇都宮からの新政府軍増援が表れたため潰乱の度合いは高まり、収拾不可能な状態となって個々の兵士が大谷川を渡って鬼怒川渓谷を高徳、柄倉、小佐越方面に敗走した。新政府軍は千本木を迂回した土佐藩兵の参戦に引き続いて、七番隊が猛進してからは全く土佐藩兵の有利に形勢が進み堡塁の外に出て、迂回部隊と七番隊とが連携して潰走する旧幕府軍を追撃して森友に達した。ここで宇都宮からの援軍と合流した。 ここに第二次今市の戦いは終結した。官軍の損害はこの日の土佐、彦根、宇都宮の各藩の報告がなく不明である。一方旧幕府軍の被った損害は恐るべきものだった。旧幕府軍は戦死者だけで20名余り、戦死傷の合計は123名に達した。この損害は当時としては極めて甚大であり、特に戦死傷58名と最大の損害を出した第二大隊は8小隊の編成であったのを、半分の4小隊とせざるをえなくなった。板垣退助のとった迂回隊を編成して敵の左側側面を攻撃するという決断は完璧な攻勢防御であり、今まで鬼怒川渓谷の隘路から攻勢をとって出撃して来た大鳥軍は、この第二次今市の戦い以後、壊滅的な損害を受けて今市を奪取するという計画を破棄して鬼怒川渓谷で防御態勢に入らざるを得なくなった。旧幕府軍の兵員の消耗は補充の手段がなく、大鳥軍は本戦闘以後縮小の一途を辿ることになる。
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