第二次今市の戦いとは? わかりやすく解説

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第二次今市の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 16:48 UTC 版)

今市の戦い」の記事における「第二次今市の戦い」の解説

5月6日旧幕府軍は一斉攻撃始めた今回第一次攻撃失敗教訓として、第二大隊第三大隊及び会津藩からなる600名を主力として今市の東から攻撃行い少数部隊が高百に位置して日光方面彦根藩兵を警戒するほか、他の一部隊が今市北北東茶臼山から牽制して主力部隊攻撃容易にするという作戦の下での攻撃であった旧幕府軍は今市東南東森友本部として、会津藩朱雀三番寄合組隊が右翼を、第三大隊中央に、会津藩朱雀二番士隊が左翼展開して今市東端新政府軍陣地向かって攻撃前進した一方第二大隊予備として森友に留まった。 今市守備担当していた新政府軍(土佐藩)の兵力は、当初は東正面警備担当していた一番隊十一番小隊及び砲1門のみであった。しかし次第増援回し右翼に十番隊が到来して旧幕府軍を側撃ようとしたが、これは旧幕府左翼隊に遮られたため目的達成することができなかった。その後次々と土佐藩の他部隊来援し、胸墻陣地内部頑強な抵抗6時間ほど行った旧幕府軍は予備第二大隊参戦して猛攻加え堡塁の手前まで到達した臨時要塞化した陣地から土佐藩兵は激烈な射撃放って陣地内に旧幕府軍の侵入を許さなかった。 戦況このように激化するまでの間土佐藩兵は以下のような苦境置かれていた。今市守備していた土佐藩兵は、本国から来た新来援軍全て宇都宮警備回された上、二番隊六番隊は傷病者江戸護送して未だ帰還していないという状態であった。しかし江戸から急使派遣され新たに土佐本国から2小隊砲兵一隊江戸到着し、これを直ち今市派遣する同時に二番隊六番隊も速やかな帰還命じられた。さらに宇都宮警備派遣され十三番隊も今市情勢剣呑である事を考慮して5月3日今市帰着したこのため今市土佐藩司令部本国から江戸派遣され新部に対して直接今市来ずに一旦宇都宮に赴き、宇都宮警備隊連絡して敵状確認してから今市に来るように命じた。従ってこの部隊今市到着予定第二次戦闘が行われた6日予定であった本戦闘の前日夜に土佐藩兵は敵兵今市北東芹沼出現したという情報を基に、各兵に警戒厳重にさせると同時に宇都宮方面から来援する予定部隊に対して、「明日6日正午ごろに到着するように行軍せよ。かつ今市東方敵軍遭遇することを想定せよ。」との指令出したまた、守備隊各隊長には、翌日敵襲予期して宇都宮から来援する部隊挟撃するため、旧幕府軍の攻勢受けた正面では少なくとも正午までは持久戦展開し濫りに攻勢仕掛けことなく宇都宮から援軍到着して挟撃体制完了した際に激しく敵を攻撃して殲滅期するという厳命伝達して敵襲待った旧幕府軍は前夜土佐藩想定通りに東正面から大挙襲来したため、板垣かねてから計画通りであると藩兵を鼓舞して配置付かせる同時に日光守備彦根藩兵にも敵襲通報した新政府軍予定通り堡塁について防戦専念したが、東正面大鳥軍は全兵力駆使して猛烈な攻勢取った。特に第二大隊の指揮官である大川次郎滝川具綏抜刀して先頭に立ち、堡塁50手前まで肉薄するほどの奮戦をした。土佐藩兵の猛烈な射撃でこれらの攻勢それ以上肉薄できなかったが、東正面土佐藩兵は当初3小隊増援半隊と砲1門のため苦戦著しかった土佐藩は1隊と北西警備北村重頼包隊の臼砲来援したが、これも大鳥軍の攻勢阻むには至らず押されがちであった正午近く日光方面彦根藩兵2小隊土佐藩増援為に今市西口到着し、1小隊所野から高百に向かって直接日光警戒実施する同時に敵軍今市西口方面攻勢仕掛けて来る場合想定して警戒当たった苦戦している土佐藩兵は正午至って宇都宮方面からの援軍到着せず板垣総督作戦計画変更することを決断した。即ち、西口守備彦根藩兵に任せ同地守備していた八番隊半隊と予備隊として控えていた断金隊合わせた1小隊半の兵力で、今市南口平ケ崎から山地伝って東南迂回し千本木南方出て敵の左背面攻撃させ、この迂回部隊連携して西正面七番隊が土佐藩右翼迂回部隊中間から敵兵攻撃するという計画である。また、正面では茶臼山瀬尾付近旧幕府軍が大谷向付近に現れたため北村砲隊が砲撃したが、敵軍渡河しなかった。板垣西口守備の斉武隊も東口増援させた。 土佐藩迂回隊が所定配置についた時、時刻午後二時頃であり、迂回隊の攻撃開始同時に山地元治指揮下の七番隊が出撃し、ここに大鳥左翼は完全に新政府軍包囲された。この時森友大鳥軍司令部予備兵力は皆無であり、本部10数名がいるだけで救援の兵は一兵も無かった。たちまち攻守逆転し土佐藩兵の包囲攻撃によって大鳥左翼あっという間に内曲的に後退させられ土佐藩兵が大鳥左翼包囲形成するに従って更なる内曲後退強いられたまた、土佐藩左翼構成していた北正面守備三番四番隊十三番隊の援護によって直角に正面転換して正面旧幕府軍を半包囲するように攻撃前進した。ついに大鳥軍はその両翼包囲されのである大鳥軍の前面敗退必至の状態となっている最中待望宇都宮方面からの新政府軍増援部隊到着した。この増援部隊6日早朝出発予定していたところ、宇都宮警備十四番隊から共同参戦申し出られ、また道案内を出す代わりに宇都宮藩一隊出兵することになった出発遅れたまた、宇都宮今市間の道は連日降雨で状態が悪く急行が困難であったこのように進軍難航しながらも午後三時ごろに大鳥本営がある森友東方到達した戦闘間に合った増援部隊土佐藩十四番隊と信頼十五番隊、及び宇都宮藩1隊であった。この増援部隊大鳥軍司令部背面から急襲した大鳥本営司令部要員しかおらず、大鳥達は森林に身を避けたところ今度別の新政府軍攻撃され辛うじて離脱して小佐越まで潰走した。 大鳥軍司令部潰走していた頃、大鳥軍の戦闘部隊敗北決定的な状況追い込まれていた。両翼包囲された上、正面土佐藩兵が攻勢移転したことで後退後退重ねながら次第統率喪失し、ついに潰乱して敗走した。さらに背面からは宇都宮からの新政府軍増援表れたため潰乱度合い高まり収拾不可能な態となって個々兵士大谷川渡って鬼怒川渓谷高徳柄倉小佐越方面敗走した新政府軍千本木迂回した土佐藩兵の参戦引き続いて七番隊が猛進してからは全く土佐藩兵の有利に形勢進み堡塁の外に出て迂回部隊七番隊とが連携して潰走する旧幕府軍を追撃して森友達した。ここで宇都宮からの援軍合流した。 ここに第二次今市の戦いは終結した官軍損害はこの日の土佐彦根宇都宮各藩報告がなく不明である。一方旧幕府軍の被った損害恐るべきのだった旧幕府軍は戦死者だけで20余り戦死傷の合計123名に達した。この損害当時としては極めて甚大であり、特に戦死58名と最大損害出した第二大隊は8小隊編成であったのを、半分の4小隊とせざるをえなくなった板垣退助のとった迂回隊を編成して敵の左側側面攻撃するという決断完璧な攻勢防御であり、今まで鬼怒川渓谷隘路から攻勢をとって出撃して来た大鳥軍は、この第二次今市の戦い以後壊滅的な損害受けて今市奪取するという計画破棄して鬼怒川渓谷防御態勢に入らざるを得なくなった旧幕府軍の兵員消耗補充の手段がなく、大鳥軍は本戦以後縮小一途を辿ることになる。

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