第二次伊庭氏の乱
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ところが、永正11年(1514年)2月19日になって、伊庭貞隆は息子の貞説(六郎と同一人物かは不詳)と共に再び出奔して、六角氏と対立する北近江の京極氏および浅井氏の支援を受けて南近江で六角高頼と戦った。 永正17年(1520年)、六角軍は伊庭氏の有力被官である九里氏の拠点であった九里城を攻めて伊庭氏・九里氏を六角領から排除した。当時の六角氏当主であった六角定頼(高頼は隠居中)は細川高国に要請して五反帆の大船を兵庫津から琵琶湖に回航させているが、京都から先は船では入れなかったために牛車を用いて京都市中を引っ張って近江国内まで陸送したという(『二水記』永正17年8月11日条)。 六角氏と伊庭氏および京極氏の戦いは断続的に続くが、大永5年(1525年)に六角軍が京極軍を打ち破って九里氏を滅ぼしたことで事実上終焉し、それまでの所領や所職のほとんどを没収された伊庭氏は本領である神崎郡伊庭(現在の滋賀県東近江市)のみを安堵された。この間に六角高頼と跡を継いだ氏綱は病死し、氏綱の弟である承亀が還俗して「六角定頼」と名乗って新たな体制を構築することになる。また、伊庭氏の被官たちも乱の過程で六角氏によって直臣に取り込まれていき、中でも池田氏に至っては六角氏綱死去の際には池田三郎左衛門尉が氏綱側近として定頼への家督継承に関わるまでになっている。 また、六角氏と京極氏との関係で言えば、京極氏が乱中の大永3年(1523年)に発生した梅本坊公事と称された家督争いによって混乱した中で六角氏に敗北したことでその権威は没落して浅井氏に取って代わられている。しかし、乱の結果として、両勢力の混在していた犬上郡・愛知郡の支配権は六角氏に奪われることになる。その状況が再び変化するのは永禄3年(1560年)の野良田の戦いで浅井氏が六角氏に勝利して再び南下を始めて以降になる。
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