第二次伊庭氏の乱とは? わかりやすく解説

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第二次伊庭氏の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/02 02:33 UTC 版)

伊庭氏の乱」の記事における「第二次伊庭氏の乱」の解説

ところが、永正11年1514年2月19日になって伊庭貞隆息子の貞説(六郎同一人物かは不詳と共に再び出奔して、六角氏対立する北近江京極氏および浅井氏支援受けて近江六角高頼戦った永正17年1520年)、六角軍は伊庭氏の有力被官である九里氏の拠点であった九里城攻めて伊庭氏九里氏を六角領から排除した当時六角氏当主であった六角定頼(高頼は隠居中)は細川高国要請して五反帆大船兵庫津から琵琶湖回航させているが、京都から先は船では入れなかったために牛車用いて京都市中を引っ張って近江国内まで陸送したという(『二水記永正17年8月11日条)。 六角氏伊庭氏および京極氏戦い断続的に続くが、大永5年1525年)に六角軍が京極軍を打ち破って九里氏を滅ぼしたことで事実上終焉し、それまで所領所職のほとんどを没収され伊庭氏本領である神崎郡伊庭現在の滋賀県東近江市)のみを安堵された。この間六角高頼と跡を継いだ氏綱は病死し、氏綱の弟である承亀が還俗して六角定頼」と名乗って新たな体制構築することになる。また、伊庭氏被官たちも乱の過程六角氏によって直臣取り込まれていき、中でも池田氏至って六角氏綱死去の際には池田三郎左衛門尉が氏綱側近として定頼への家督継承関わるまでになっているまた、六角氏京極氏との関係で言えば京極氏が乱中の大永3年1523年)に発生した梅本公事称され家督争いによって混乱した中で六角氏敗北したことでその権威没落して浅井氏に取って代わられている。しかし、乱の結果として、両勢力混在していた犬上郡愛知郡支配権六角氏奪われることになる。その状況が再び変化するのは永禄3年1560年)の野良田の戦い浅井氏六角氏勝利して再び南下始めて以降になる。

※この「第二次伊庭氏の乱」の解説は、「伊庭氏の乱」の解説の一部です。
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