洛陽攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 04:41 UTC 版)
同月、劉粲と征東将軍王弥・龍驤将軍劉曜らに4万の兵を与え、洛陽攻略に向かわせた。鎮軍将軍石勒もまた騎兵2万を率いて大陽で合流した。劉粲らは監軍裴邈を澠池で破り、進軍を続けて洛川に入った。その後、轘轅を出て梁国・陳留・汝南・潁川一帯を攻め、砦百余りを陥落させた。石勒は成皋関を越えると、倉垣に進んで陳留郡太守の王讃を包囲したが、敗れて文石津まで撤退した。 311年4月、病死した東海王司馬越の棺を守り、山東に向かっていた王衍率いる晋軍10万余りを、石勒が壊滅させた。趙固と王桑は彭城を攻めて徐州刺史の裴盾を殺した。 5月、石勒の勝利を好機と見た劉聡は、衛尉の呼延晏を使持節・前鋒大都督・前軍大将軍に任じ、禁兵2万7000を授けて宜陽から洛川に入らせた。さらに、王弥・劉曜・石勒に軍を進めて呼延晏と合流するよう命じた。呼延晏が河南へ侵攻すると、晋軍に連勝して3万人を斬った。洛陽攻撃に入ると、平昌門を陥落させ、東陽門・宜陽門と諸々の役所に火を放った。さらに河南尹の劉黙を杜門において撃ち破った。懐帝は河を渡って東へ逃れようとしたが、呼延晏が阻んだ。 6月、王弥・劉曜が到着すると、再び呼延晏ともに洛陽を包囲した。この時、洛陽城下では酷い食料不足となっており、人が互いに食い合う程であった。百官は離散して、誰も守り抜こうという意志がなかった。王弥・呼延晏は宜陽門を落とすと、南宮に入って太極前殿に上った。兵を放って大掠奪を行い、宮人及び珍宝をことごとく収めた。劉曜は諸王公及び百官以下三万人余りを虐殺し、洛水の北に死体を積み上げて京観を築いた。また、懐帝と恵帝の皇后羊氏を捕らえ、平陽へ送還した。また、伝国の六璽も平陽へ送った。この事件を史書は永嘉の乱と呼ぶ。 劉聡は大赦を下し、嘉平と改元した。懐帝を丁重に扱い、特進・左光禄大夫に任じ、平阿公に封じた。
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