河南へ侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 22:53 UTC 版)
357年10月、東晋の泰山郡太守諸葛攸が東郡を攻撃し、武陽へ侵入した。慕容儁は大司馬慕容恪に迎撃を命じ、司空陽騖と楽安王慕容臧にも従軍させた。慕容恪は諸葛攸を返り討ちにして泰山へ退却させた。 同月、東晋の北中郎将謝万は当時、梁・宋の地に駐屯していたが、慕容恪襲来の報を聞いて大いに恐れて軍を退却させた。慕容恪はそのまま軍を進めて黄河を超え、河南の地を攻略した。その後、汝南・潁川・譙・沛の各郡に守宰を置いてから帰還した。これにより前燕の支配地域は黄河以南にも及び、東晋には大きな脅威となった。 その後、さらに上党へ軍を進めて駐屯した。当時、上党郡出身の馮鴦は前燕の統治を拒んで安民城において自立していたが、慕容恪が到来した事により衆を挙げて再び前燕に降伏した。これにより前燕は河北の地を完全に領有した。 358年10月、東晋の泰山郡太守諸葛攸が再び軍を率いて東郡へ襲来したが、慕容恪が迎撃に出ると、諸葛攸は軍を退いた。
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