河南での大惨敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 14:21 UTC 版)
同年6月、湯恩伯は軍功を評価されて第31集団軍総司令に昇進し、鄭州以南の鉄道沿線地域を守備した。武漢会戦でも大別山に布陣して日本軍を迎撃している。その後、湯の第31集団軍は河南省に戻り、葉県に総司令部を置いた。1941年(民国31年)には魯蘇皖豫四省辺区委員会主任を兼任し、翌1942年(民国31年)1月には第1戦区副司令長官兼四省辺区総司令にまで昇進している。これにより強大な権力を手中にした湯恩伯は、軍を次々と拡充して40万の兵力を擁し、「中原王」と称されるまでに至った。 しかし、湯恩伯は拡充した大軍を維持するために河南省の住民から過酷な収奪を展開し、怨嗟や憎悪を被ることになる。湯の余りの拙劣な統治は、親友の戴笠にすら危惧を抱かれるほどであった。そして1944年(民国33年)4月、日本軍12万は河南省へ向けて侵攻を開始する(大陸打通作戦、豫湘桂会戦)。この時に湯は40万の兵力を擁していたが、配置は粗雑であり、軍の質も玉石混交であった。日本軍の攻勢に湯は全く対応できず、僅か38日で河南省全省を失陥してしまう。慌てふためいた湯は、軍服を脱ぎ捨て炊事夫に変装し、やっとのことで脱出した。 あまりにも呆気ない戦線崩壊を招いた湯恩伯は、朝野からの激しい非難を浴び、軍法で処断せよとの声が多く上がった。しかし蔣介石の庇護を受けた湯は罪を問われず、解職のみに留められている。1945年(民国34年)2月、湯は第3方面軍総司令として復帰した。5月には広西省入りし、張発奎と協力して桂林奪回を行っている。
※この「河南での大惨敗」の解説は、「湯恩伯」の解説の一部です。
「河南での大惨敗」を含む「湯恩伯」の記事については、「湯恩伯」の概要を参照ください。
- 河南での大惨敗のページへのリンク