河北転戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:32 UTC 版)
23年(更始元年)冬、劉秀は河北へと向かう。河北で劉秀が邯鄲を離れ北上した際、邯鄲で王郎が漢の成帝の落胤であると称し劉林や李育らと挙兵、劉秀の首に10万戸の賞金を掛けて捕えようとした。そのため劉秀は鄧禹・王覇・馮異ら僅かな部下を率いて河北を転戦することとなった。それは厳しい行軍となり極寒の中馮異が薪を集め鄧禹がたき火をし豆粥や麦飯で寒さと飢えをしのぐ状態であったと伝えられている。 その後は王郎を拒否し劉秀の庇護を求める信都郡の太守任光とその配下の李忠と萬脩、和成郡の太守邳彤らが劉秀を迎え入れ、地方豪族の劉植・耿純が陣営に加わる。任光・李忠・萬脩・邳彤・劉植・耿純は後世に雲台二十八将として名を連ねることとなった。 劉秀は王郎の配下で10余万の兵を持っていた真定王劉楊(『漢書』に拠る。『後漢書』は、「劉揚」に作る)への工作を開始し、劉楊の妹が豪族の郭昌に嫁いで産んだ娘、すなわち劉楊の姪の郭聖通(のちの郭皇后)を劉秀が娶ることで、劉楊を更始帝陣営に組込むことに成功した。 こうして王郎と対峙する中、精鋭の烏桓突騎を擁する漁陽郡と上谷郡が劉秀側につき、後世の雲台二十八将とされる呉漢・蓋延・王梁(以上漁陽)、景丹・寇恂・耿弇(以上上谷)らを派遣して劉秀と合流した。これにより勢いを増した劉秀軍は王郎軍を撃破、24年夏には邯鄲を陥落させ、王郎は逃走中に斬死する。 劉秀の勢力を恐れた更始帝は、劉秀を蕭王とし兵を解散させて長安に呼び戻そうとしたが、劉秀は河北の平定が完了していないとこれを拒否し、自立する道を選択した。その後は銅馬軍なる地方勢力軍を下し、その兵力を旗下に入れた劉秀軍は数十万を越える勢力となった。
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