河南の会戦/豫中会戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:56 UTC 版)
「大陸打通作戦」の記事における「河南の会戦/豫中会戦」の解説
詳細は「コ号作戦(英語版)」を参照 まず、事前の準備として京漢鉄道の黄河鉄橋の修復が1943年末から開始され、関東軍の備蓄資材などを利用して1944年3月末までに開通した。4月14日、第12軍(司令官:内山英太郎中将)の部隊が列車で黄河の通過を開始した。内山中将の指揮下には第62師団と第37師団、第110師団、独立混成第7旅団の各歩兵部隊の他、戦車第3師団と騎兵第4旅団(英語版)が入った。 4月20日、日本軍は覇王城を守る中国第85軍に対して攻撃を開始した。中国軍はすぐに後退に移ったのに対して、日本軍は追撃を開始し、河南省密県での撃滅を目指した。第37師団の歩兵第225連隊により密県は攻略され、守備していた中国軍第23師団は壊滅させられた。 ついで日本第12軍は、許昌市の攻略と救援に来るであろう中国軍の包囲殲滅を狙った。日本軍の許昌進撃を知った蔣介石は、4月26日に許昌の死守を命じ、援軍を派遣させた。日本軍は第62師団を迎撃部隊として控えさせたうえ、4月30日に第37師団をもって許昌攻城戦を開始した。第37師団は城外のクリーク渡河に苦労したものの、山砲の集中と航空支援により翌日には許昌を占領してしまった。守備隊長であった新編第29師団長の呂公良(zh)少将は戦死した。援軍としてやってきた中国側の第12軍(司令官:湯恩伯将軍)と第29軍も迎撃を受け、うち第12軍は5月7日までに壊滅した。日本第12軍の支援を受けた第11軍の第27師団は、5月9日確山に到着し京漢陸路の打通に成功、南北の連絡を完成した。 さらに中国軍の物資集積基地のあった盧氏県も、5月20日までに日本の第37師団歩兵第226連隊によって占領された。所在の飛行場と倉庫は日本軍の制圧下となった。湯恩伯将軍によれば、京漢作戦中で最大の打撃であったという。 河南の中国軍は糧食を住民からの徴発による現地調達に頼っていたため、現地住民の支持を得ることができなかった。これが中国軍の敗北の大きな一因になったと言われる。1942年には大旱魃があったばかりだった。蔣鼎文によるとほとんど一揆のような状態だったという。
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