許昌・汝南・陳郡攻略
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363年4月、慕容暐は寧東将軍慕容忠に滎陽攻略を命じた。慕容忠が迫ると、東晋の滎陽郡太守劉遠は魯陽へ逃走した。5月、慕容忠はさらに進軍して密城を攻め落とすと、劉遠はさらに江陵まで逃れた。10月、鎮南将軍慕容塵に東晋の陳留郡太守袁披の守る長平攻略を命じたが、汝南郡太守朱斌がその隙に乗じて許昌を襲い、これを攻め落とした。 364年1月、慕容暐は南郊において祭祀を行い、領内に大赦を下した。 2月、慕容暐は太傅慕容評と龍驤将軍李洪を河南へ侵攻させた。前燕軍は東晋軍を破って潁川郡太守李福を戦死させ、汝南へ到達すると汝南郡太守朱斌は寿春へ逃走した。さらに陳郡へ進んで城を包囲すると、陳郡太守朱輔は籠城して抵抗した。大司馬桓温は江夏相劉岵を派遣して救援させると、慕容評らは軍を撤退させた。 4月、慕容暐は再び李洪を派遣して許昌へ侵攻させ、懸瓠において東晋軍を破った。朱斌は淮南まで撤退し、朱輔もまた彭城まで退却した。桓温は西中郎将袁真を派遣して李洪を防がせ、自らは水軍を率いて合肥まで進出した。李洪は遂に許昌・汝南・陳郡を攻略し、1万戸余りを幽州・冀州に移らせた。慕容暐は鎮南将軍慕容塵に許昌を防衛させた。
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