許昌へ左遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 13:45 UTC 版)
しかし司馬冏は游撃将軍の位しか貰えなかった事に不満を抱き、また司馬倫が国政を専断し人々を混乱させるようになると、これに強い不信感を抱いた。司馬倫の側近である孫秀はこれを察知し、司馬冏の存在を危険視して洛陽から遠ざける事を決めた。司馬冏は平東将軍に任じられて仮節を与えられると、許昌へ出鎮するよう命じられた。 301年1月、司馬倫は恵帝に圧力を掛けて帝位の禅譲を迫り、自ら皇帝に即位した。この時、司馬冏は許昌において強兵を擁していたので、司馬倫はこれを深く憂慮して懐柔を謀った。これにより司馬冏は鎮東大将軍に任じられ、開府儀同三司の特権を与えられた。しかし司馬冏は衆人が司馬倫の暴政に怨嗟の声を挙げている事から、密かに討伐を目論むようになった。当初はそれぞれ済陰・潁川で独自の勢力を築いていた王盛・王処穆と密かに結託して計画を進めていたが、司馬倫が配下の管襲を派遣して監視に当たらせると、計画の発覚を恐れた司馬冏は管襲に協力して両者を討伐し、その首を洛陽に送って司馬倫を安心させた。
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