洛陽時代の逸話
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劉淵が洛陽に留まっていた頃、その血筋と才覚により多くの者から注目を浴びる事となったが、それ故に朝廷の重臣達からは大いに警戒される事となり、立場が危うくなる事が何度かあった。 まだ呉が健在だった頃、司馬炎は王済に「劉淵は容姿端麗で才能にあふれている。春秋の由余や前漢の金日磾でも、劉淵には及ばないな」と語りかけると、王済は「劉淵の容姿や才能が優れているのは陛下の仰るとおりです。しかし、劉淵の文武の才は由余や金日磾と比較するようなものではありません。もし劉淵に東南方面の軍事一切をお任せになるならば、呉郡や会稽郡はたちまち帰順し、呉を平定に赴く必要すらなくなるでしょう。」と答えた。司馬炎は王済の意見に同意して呉の征伐を委ねようと考えたが、孔恂と楊珧は進み出て「臣が劉淵の才覚を見たところ、おそらく他に並ぶものはいないでしょう。もし陛下が彼に兵権を与えれば、孫呉を平定した後、転進して北に軍を向けるやもしれません。彼は胡族であり、胸のうちに必ず異心があります。ですから臣はひそかに陛下のために、この件について憂慮しております。彼に長江の要害に拠るような機会を与えてはなりません」と諫めた。これを聞いた司馬炎は黙り込んでしまった。 270年から278年にかけて、鮮卑の禿髪樹機能が西晋に対し大規模な反乱を起こして秦州・涼州を席巻した。その為、司馬炎は朝議において誰に平定を任せるべきか意見を集めると、李憙は「陛下がもし五部匈奴を動員し、劉淵に将軍号を与えて西に進軍させれば、たちまち平定することでしょう」と勧めた。だが、孔恂は「李公(李憙)の進言は、憂いを完全に取り除くものとは言えません」と反論すると、李憙は怒って「匈奴の勇猛さと劉淵の用兵の巧みさをもって陛下の威を広めれば、どうして滅ぼせないことがあるのか」と詰った。これに孔恂が「もし劉淵が涼州を平定して禿髪樹機能を斬ったとしても、涼州に劉淵という新たな難が起きるだけです。龍が雲雨を得れば、もう池の中に潜んだりはしないでしょう」と答えた。司馬炎は孔恂の意見にも思うところがあったので、劉淵に涼州平定を命じるのを諦めた。 劉淵は名門貴族であった王弥とはかねてより仲が良く、彼が洛陽から故郷の青州に帰るときには九曲の川岸まで見送りに行った。この時、劉淵は涙を流して王弥へ「王渾や李憙は同郷のよしみで私の事を称賛し、朝廷に推挙してくれる。だが、それによって一部の人に、陛下の前で私を讒言する(貶める)機会を与えてしまっている。これは私の本意ではなく、むしろ立場を危うくしているだけだ。それに私は元から官位などに興味はないのだ。私が本音を話せるのはあなただけだ。私は恐らく洛陽で誅殺されるだろう。あなたと会うのもこれが最後であろうな」と自らの心情を漏らした。また、憤りと悲しみのあまり、酒を浴びるように飲みながら声高に詩歌を吟じた。これに同席していた人はみな涙を堪え切れなかったという。当時、斉王司馬攸は九曲に駐屯していたが、彼はこの一件を伝え聞くと劉淵の下へ人を派遣し、その動向を観察すると共に、兄である武帝司馬炎へ書を送って「劉淵を除かなければ、并州が久しく安寧のままではないでしょう」と忠告した。だが、王渾は進み出て「劉淵は徳に優れる人物です。私は陛下の御為にはっきりと申し上げます。この晋国は誠を用いて少数民族を従え、徳を用いて遠方の民を帰属させております。劉淵は匈奴を代表して来朝しているのです。その劉淵をもしあらぬ疑いをかけて殺してしまえば、晋朝の恩徳が広まることなどありましょうか」と反論した。司馬炎は王渾に深く同意し、この件については不問とした。
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