福原広俊 (隠岐)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/07 02:52 UTC 版)
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時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 寛永15年(1638年) |
死没 | 元禄8年4月5日(1695年5月17日) |
改名 | 諱: 広次(初名)→広俊 |
別名 | 通称:源三郎 |
官位 | 隠岐守 |
主君 | (毛利秀就→)綱広→吉就→吉広 |
氏族 | 大江姓福原氏 |
父母 | 父:福原元俊、母:口羽元武女 |
兄弟 | 広俊 |
妻 | 正室:右田毛利家毛利元法女 継室:毛利氏女 継室:内藤就勝養女(実内藤就茂女) |
子 | 広頼、就澄 吉川広紀養女(益田就賢室)、広泰 福原広頼養女(毛利広包室、実福原俊応女) |
福原 広俊(ふくばら ひろとし)は、江戸時代前期の長州藩永代家老、宇部領主福原家15代当主。
生涯
寛永15年(1638年)毛利家家老福原隠岐守元俊の子として生まれる。寛永19年(1642年)幕府の証人(人質)として江戸に下向する。承応2年(1653年)に父元俊が死去し、翌承応3年(1654年)に家督を相続する。藩主毛利綱広の偏諱(「広」の字)を賜り、広次(ひろつぐ)を名乗る。のち亡き父・元俊の1字を取って広俊に改名(福原広俊を名乗った4番目の人物となる)。
寛文元年(1662年)大頭役を仰せつかる。寛文10年(1670年)父元俊の菩提寺として宗隣寺を再建する。延宝2年(1674年)江戸当役を仰せつかる。元禄5年(1692年)当職(国家老・執政)を仰せつかる。
元禄8年(1695年)病のため当職を辞職し、同年4月5日卒。享年58。
参考文献
- 「宇部市史」
- 「福原家譜」(東京大学史料編纂所)
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