福原就清とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 福原就清の意味・解説 

福原就清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/15 07:07 UTC 版)

福原 就清(ふくばら なりきよ、宝暦6年6月8日1756年7月4日[1] - 寛政3年8月18日1791年9月15日))は、長州藩永代家老・宇部領主福原家20代。

父は福原広門。母は毛利元雅の娘。正室は毛利就禎の娘。継室は毛利広豊の娘。養子は福原房純通称少輔三郎、丹波、播磨、豊前。

生涯

宝暦6年(1756年)、長州藩家老福原広門の長男として生まれる。安永3年(1774年)、藩主毛利重就偏諱を受け、初名の俊郷(としさと)から就郷(なりさと)、次いで就清に改名。安永9年(1780年)、光格天皇即位の祝賀使を務める。天明6年(1786年)、長州藩が関東諸河川普請手伝の幕命を受け、河川普請総奉行を務める。天明7年(1787年)に「猗園随筆」を著した。「猗園」には傾倒する荻生徂徠の伝記等を収録。天明9年(1789年)、父の隠居により家督を相続する。

寛政3年(1791年)5月、徳山藩毛利就馴の子の馴倫(よしのり、後の房純)を養嗣子とする。同年8月18日、江戸藩邸で死去。享年36。

脚注

  1. ^ 『近世防長諸家系図綜覧』防長新聞社、1966年、p.110。

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「福原就清」の関連用語

福原就清のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



福原就清のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの福原就清 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS