ラファイエット夫人とは? わかりやすく解説

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ラファイエット夫人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/20 00:59 UTC 版)

ラ・ファイエット夫人
マリー=マドレーヌ・ピオシュ・ド・ラ・ヴェルニュ
Marie-Madeleine Pioche de La Vergne, comtesse de La Fayette
誕生 (1634-03-18) 1634年3月18日
フランス王国パリ
死没 (1693-05-25) 1693年5月25日(59歳没)
フランス王国パリ
代表作 クレーヴの奥方
配偶者 ラ・ファイエット伯フランソワ・デュ・モティエ
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ラ・ファイエット伯爵夫人マリー=マドレーヌ・ピオシュ・ド・ラ・ヴェルニュ(Marie-Madeleine Pioche de La Vergne, comtesse de La Fayette、1634年3月18日(洗礼日) - 1693年5月25日)、いわゆるラファイエット夫人(Madame de La Fayette)は、フランスの女流作家[1]

生涯

1634年パリに下級貴族の家庭で生まれ、若くしてギリシャ語ラテン語イタリア語などを学んだ。少女時代から摂政母后アンヌ・ドートリッシュに仕え、サロンの花形となった。1655年、ラファイエット伯爵と結婚、オーヴェルニュの領地に暮らすが、1660年ごろには夫婦仲は疎遠になっていた。シャイヨのサント・マリー修道院にいる2人の妹たちをたびたび訪ねるうちに、亡命中のチャールズ1世の未亡人であったヘンリエッタ・マリアと末娘の王女ヘンリエッタ・アンの知遇を得た。ラファイエット夫人は下級貴族の出身に過ぎなかったが、10歳年下のヘンリエッタと深い友情で結ばれ、その友情は生涯変わらず、ヘンリエッタ・アンの最期も看取った。セヴィニエ夫人とも交流があった。義兄ルイ14世とヘンリエッタの不倫を擁護するために、小説を刊行する。『クレーヴの奥方』などの作品を残し、1693年に死去した[1]

著書・伝記

  • クレーヴの奥方 (3篇とも生島遼一訳で、岩波文庫
  • モンパンシエ公爵夫人[2]
  • タンド伯爵夫人[3]
  • 実像クレーヴの奥方 〈ヴァロワ宮廷の華〉アンヌ・デストの生涯(ヴァランティーヌ・ポワザ 萩原茂久訳 彩流社 1995年)

外部リンク

出典

  1. ^ a b ラファイエット夫人”. 光文社古典新訳文庫. 2024年11月19日閲覧。
  2. ^ モンパンシエ公爵夫人|ラ・ファイエット夫人|フランス文学|世界文学データベース|SYUGO.COM 4th Edition+”. www.syugo.com. 2024年11月19日閲覧。
  3. ^ タンド伯爵夫人|ラ・ファイエット夫人|フランス文学|世界文学データベース|SYUGO.COM 4th Edition+”. www.syugo.com. 2024年11月19日閲覧。




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